インタビュー:長谷川 誠
80年代中盤から約10年間、浜田省吾のツアーに参加し、1996年にソロデビュー、その後、韓国を中心に幅広い活動を展開してきたピアニスト、作曲家、音楽プロデューサーである梁 邦彦がソロデビュー20周年記念LIVEを12月22日に東京・グローブ座で開催することになった。これまで映画やアニメの音楽制作、バンドのプロデュース、ソチオリンピック閉会式での2018年平昌オリンピックPRセレモニーを始めとする国際的なイベントでの音楽監督、さらには韓国・済州島で行われる音楽フェスの音楽監督など、幅広い活動を精力的に展開してきたが、20周年のアニバーサリー・イヤーとなる今年は、ジャンルやスタイルを超えた豊穣な音楽が詰まっている最新ソロアルバム『EMBRACE』も発表。また、最新ニュースでは、2018年に韓国で開催される平昌オリンピックの音楽監督に就任決定。年末のステージも20年のキャリアを凝縮した夜となるだろう。
――ソロデビュー20周年ということになりますが、この年月をどのように感じていますか?
僕のソロ・デビューは36で、かなり後発です。プロとしては19から音楽を始めましたが、ソロ前とソロになってからの音楽とその軌跡が明確に分かれています。ソロをきっかけに別のドアを開き、そこからもう20年経ったんだなというのが正直な感想です。
――ソロでのファーストアルバムのタイトルが『The Gate Of Dreams』でした。ゲートという言葉も扉を開けるという言葉に通じるのではないですか?
きっとそういう意識なんだと思います。誰でもいろんな状況に遭遇するじゃないですか?僕はそこで面白そうと思うとのぞき込み、すぐ入って行ってしまうタチなので、色んなドアをたくさん開いたのかなと(笑)。様々な国や人、文化が反応し、その瞬間でしか生まれえないものに強く惹かれる習性なんですね、きっと。
――ソロデビューする前の音楽活動では、浜田省吾さんのツアーに参加したり、レコーディングに参加したりされています。
浜田さんとの経験はとても大きかったです。プロミュージシャンとして、物心ついたときから巻き込んでもらったというか。友人の紹介で、ツアーに初参加することになったのが30年前の『J.BOY』ツアー(ON THE ROAD ’86 “I’m a J.BOY”)だったんですが、知らないことも多く、新鮮な日々でした。
――浜田さんから学んだことというと?
お客さんがあれだけの地熱で浜田さんを求めているのを見て、最初驚きました。どうして、みんな、こんなに浜田さんのことを好きになるんだろうって。歌がいい、歌詞がいいのは当然だけど、観客と一体化したあの空気、臨場感がとにかくすごい。アーティストという存在は、人を惹きつけつる力を備えている、いなければいけないんだと。人前で表現し共感を呼ぶ“磁場の強さ”を肌で認識出来た事で、音楽とは別部分の「核」を学ばせてもらった感じです。人が僕のピアノを聴きに来てくれた時、自分はどうあるべきかを考える、つまりアーティストとしての原風景はジャンルは違えど浜田さんだった。当時、ツアーは100本以上あったので家族より一緒にいる時間は長いし、貴重な経験をたくさんさせてもらいました。
――浜田さんとのエピソードで、印象に残っていることはたくさんあると思うのですが、ひとつ、挙げていただくと?
当時、真冬の北海道ツアーは公演終了後バス移動だったんですが、夜中の移動時、良くビデオを観ました。ある時、浜田さんが僕の隣りに座っていて、映画が終わると“梁はいつかこういうこと(映画音楽)をやると思うんだよね”って、ポロッと言ってくれた。僕はもともと映画音楽は大好きだったけど、当時そこまでの認識はなかった。浜田さんは、人生の鍵となるキーワードをさり気なく言ってくれる、いろんな意味でヒントを与えてくれました。僕は最初からいきなりソロデビューしたのではなく、浜田さんと10年以上やって培ったもの、自分のバックボーンにあるクラシカルなものや、スタジオでの経験などを徐々に化学反応させ、自分の音楽スタイルを構築していったのだと思います。正に感謝です(笑)
――梁さんは昨年公開されて、好評を博した映画『アゲイン 28年目の甲子園』の音楽を担当されていましたが、浜田さんが主題歌「夢のつづき」を書き下ろしています。浜田さんとのやりとりはありましたか?
基本、映画のBGMは監督さんと作っていくのですが、浜田さんがエンディングの主題曲を歌っていて、サントラにはその曲をインストでアレンジして入れたりと、コミュニケーションは結構取っていました。“メロディーだけ作った曲があるんだけど、インストでやってみない?”とか、サントラのアルバムにするにあたって、“こういうことをやったらおもしろいんじゃない?”という提案をしてくれたり。10何年ぶりの共同作業で、懐かしい感じもあり〜の、別フィールドで活動して時間が経っても、こうしてまた一緒に出来るのは素晴らしいし、何よりも新鮮でした。別フィールドの者同士で生じるスパークというのかな。
――10数年ぶりに浜田さんと一緒に制作に関わってみて、どんなことを感じましたか?
浜田さんの骨格であるメロディーが相変わらず太いな、と。並外れた説得力を持っているところは変わらない。と同時に、僕との空白の間も当然進化されてきた事を実感しました。
――ソロ作品、映画やアニメの音楽、ソチオリンピック閉会式での音楽監督、済州島での音楽フェスのプロデュースなど、実に多岐にわたった活動をされてきています。最新アルバム『Embrace』に「No Boundary」という曲が収録されてますが、まさに境界線のない活動なのではないですか?
僕のバックグラウンドも多少関係しているのかな。父は韓国南端の済州島生まれ、母は北端;新義州という中国国境近くの生まれ、その両親が東京で出会い、僕が生まれた。家族の後を追い僕も医者になったが1年で放棄、そして音楽へ。そういった素地もありボーダー(Boundary)という意識が元々希薄なのかな、とも。固定観念にとらわれず、いろんな人、いろんな事と音楽で繋がっていると、いいことあるんじゃない?!的なNo Boundary感。かたっ苦しい大仰な話ではなく、言葉通じなくても、歌っちゃえば伝わるよね、みたいなとこあるじゃないですか。
――確かに、そういうところにも音楽の素晴らしさはありますよね。この20年は、音楽によっていろいろな人々と繋がってきた期間でもあったわけですね。
そうですね。様々な場所のミュージャン、文化、風土と出会った時に、それぞれが反応して、その瞬間だけに生まれるものがあって。僕はそこに魅力を感じる人間だと言うことがこの20年でわかってきました、今さらだけど。そしてインスト音楽であるがゆえにそういうことが起こりやすい、起こしやすいとも思うのです。ステージによってミュージシャンによっても、場所によっても生まれる音楽は違うし、その瞬間、その人ならではと言う事に大きなバリューと意味があるんじゃないかなと。そんな意識もあって「No Boundary」というタイトルを付けました。
――昨年WOWOWで放映された『ノンフィクションW 託されたアリラン~音楽家・梁邦彦 その旋律は世界に響く~』の中でパリのユネスコ本部で開催された設立70周年記念演奏会のドキュメント映像も紹介されていて、梁さんは日本、韓国、アメリカ、フランスの演奏家たちと一緒にステージに立たれましたが、素晴らしい演奏が終わった直後の共演した方々の笑顔も印象的でした。
あれが病みつきになるんですよね、実に危ない(笑)。パリ本部でユネスコ創立70周年という意味深い場所でのオープニング公演、しかも詩とのコラボレーションを多国籍のミュージシャンでやるということ自体、容易ではない。その緊張感と高揚感、そして良い形でやり遂げた時の快感と安堵感はもうエクスタシーに近い。
正直その依頼を受けた時は予想の付かない展開で不安も多いけど、だからと言ってやらない理由は何処にもない。ならば、自分のフィールドで最大限の可能性を模索するモードに突入するわけです。その際重要なのが、舞台にいるミュージシャン、共演者達の連帯感。そこをしっかり抑え、後は自分の書いた音楽とスコアが整っていれば、やる度に良くなっていく過程を楽しめるし、それを共演者と共有することで、皆が自然とああいう笑顔になるんじゃないかな。
――最新アルバム『Embrace』、素晴らしい作品ですね。人間の根源的なものや人生と向き合って、様々なことを受けとめながらも、最終的に希望を感じさせてくれる曲がたくさん収録されていて、とても深い作品だなと思いました。ジャンルやスタイルを超えた作品でもあるのではないかなと感じました。
僕が大切にしているのは、様々なミュージシャン、多くの要素が自分の音楽に入ってきた場合でも、梁邦彦のフィルターによる明確なカラーと骨格を持ったものであること、そこがブレ無いように。演奏の難易度が良否の判断材料の一つになる事もあるインスト音楽で、僕のケースでは演奏の難易度がメインイシューとはなりえない。大事なことは、ディテールで込み入った部分はあっても、大枠として伝わりやすさが最優先される、これはマストです。メロディーの輪郭にしてもコンサートの構成にしても、皆さんと共有できる部分を可及的増やしていきたい、そして出来れば皆さんと一緒に「次の次元に昇っていきたい」。
20周年記念ライブ開催実現の経緯は?