「どうやらすごいと言うけれど、でもコピーバンドでしょ?」と、ブリット・フロイドをバッサリ切り捨てるピンク・フロイド・ファンがいたとしたら、それはあまりに早計だ。ピンク・フロイドに全感性を傾け、彼らのアートに身を震わせた貴台であればこそ、ブリット・フロイドのステージが「ピンク・フロイドそのものを描き出す一大エンターテインメント」であることに、畏敬の念すら抱くものであろうからだ。
記念すべきブリット・フロイドの初来日公演を目前に、その期待値の高さを全国のフロイドファンに届けるべく、スペシャルな人物に突撃取材を敢行した。そう、伊藤政則、その人である。
自然すら味方に付ける、ピンク・フロイドの神がかったステージ
──ピンク・フロイドのことなら伊藤政則に話を聞かないと…ということで、お呼び立てさせていただきました。
いやいや、ありがとうございます。ピンク・フロイドは大好きです。僕は海外のロックバンドで一番最初に観たのがピンク・フロイドなんですよ。
──え?そうなんですか。
1971年8月、高校3年生の時に観ました。僕はニッポン放送「オールナイトニッポン」のファンだから、亀渕昭信さんの番組を聞いていたんだけど「ピンク・フロイドだ、ピンク・フロイドだ」って言うわけ。しかし、『原子心母』とか『ピンク・フロイドの道』とかいろいろ買って聞いたんだけど、何がすごいのか正体がよく分からない。
──伊藤政則が「よく分からない」(笑)。高校生のときですか?
岩手の高校3年です。で、<箱根アフロディーテ>で来日するってことで、これは行かなきゃいけない、と。ただ当時はまだ東北新幹線がないので、東北本線に乗ってのプチ家出を考えていたんですよ。
──プチ家出?
両親が学校の先生で非常に厳しい家庭環境で、「ピンク・フロイドを観に行く…ってどういうこと?」って話になるので、言わないで行くことにしたんだけど、箱根なんか1泊くらいじゃ帰れないわけ。大学進学を控えていたので「東京の予備校の夏季講習を受けて自分のレベルを確かめたい」とか方便吹いてたんだけど、「そんなわけないだろ、お前全然勉強してないもん」って親父に見抜かれちゃって(笑)。だけどもうチケット買ってたから、なんとか嘘を突き通して箱根に行ったんですよ。
──当時、近所で<箱根アフロディーテ>に行った人は?
いません。ただ、僕一人だと不安なので、たまたま東京に行くという全然ロックを知らない同級生を連れて行ったんですけど、そいつがまた凄くて「お前録音機器持ってる?」って言ったら「ああ、兄貴がオープンリールのやつ持ってるよ」って。「それを箱根に持っていかない?」「いいよ、でも電池だよ?」「電池いっぱい持って行こうよ」って、それを会場に持ち込んだんです。でもサブステージのストロベリー・パス(成毛滋&つのだ☆ひろのバンド)を録ったら、その時点で電池なくなった(笑)。
──ぷ(笑)。
でもほんと、ピンク・フロイドにはびっくりしました。僕は最前列のリック・ライトの真下にいたんだけど、オープニングからエンディングまで鮮明に覚えてますよ。糸居五郎さんの「This is Pink Floyd!」というMCでメンバーが出てきても、演奏が全然始まらないの。それが幻想的でね。おとなになってから分かるんだけど、実はまだチューニングをしていただけだった(笑)。それをファンは前衛的な感じだと思ってるわけです。でもカウントから「原子心母」が始まって「おおお」って。僕の知っている数少ない曲の1つですよ。すごかったですよ。
──そこから伝説のライブが始まったんですね。
舞台監督は亀渕昭信さんでね、2019年に<政則 十番勝負>というトークイベントをやったとき、ゲストで亀渕さんをお招きしてフロイドについて語ったんだけど「僕は前日箱根に入ったんだけど大雨で大変でした」って言ったら「いやいや政則、俺たちはそれどころじゃない。3〜4日前から入って機材とかをリヤカーで運ぶんだけど、坂がぬかるんでリヤカーが上がらないんだ」と。でも自然の演出もものすごくてね、誰も予期せぬことが起こるわけです。当日は朝からの小雨も止んだけどすごく寒い日でね、「原子心母」が終わって「グリーン・イズ・ザ・カラー」や「ユージン、斧に気をつけろ」といった小作品をやっていると、デヴィッド・ギルモアの髪が揺れるくらいのすごい風が吹いてきて、芦ノ湖から発生した霧が丘を登ってきたんですよ。その頃はスモークなんてものは誰も知らない。で、ちょうどロジャー・ウォーターズが「ウオー」って叫ぶところで霧がワーって上がってきて、ステージ上で霧が撹拌されていく。当時は照明もそんなにないけど、そのチープな照明がすごく鮮やかにピンク・フロイドを照らしていて、あんな幻想的な光景は見たことなかった。亀渕さんも「自分の人生の中で、あそこまで自然が作った演出は見たことない」って言っていました。
──さすがピンク・フロイドですね。
自然すら味方に付ける、あの神がかったステージね。でね、箱根の森だからやたら鳥が鳴くんだけど、実は全部ピンク・フロイドが演出しているものだった。鳥の声とか風の音とか、全部PAから流してたの。自然と完全に一体化させる演出をやってたわけよ。
──それはすごい。
彼らが持ってきたSEなんだよね。それが延々流れてるんだ。ときどき鳥がピヨピヨって鳴いたりして「え?どこ?」って感じで、全然大仰じゃない。そういう演出ひとつとっても衝撃的だったね。
──素晴らしい体験と思い出ですね。
僕は田舎の高校3年生でコンサートの見方も知らないから、最前列で座って観てたんだけど、岩手に帰ったら親父が「これから説教始まるぞ」みたいなムードになってたの。「何かな、僕が予備校に行ってなかったのがバレたかな」と思ったら、週刊サンケイを持ってきて「これなんだ?」って。
──?
週刊サンケイの表紙に「ロック」って文字が書いてあったから「ヤバいな」と思ったんだけど、見開きででかい写真が掲載されていて、最前列でマリファナ解放戦線の旗を持っている人や、ヒッピーやフーテン達が写っているカオスな中に、メガネかけた田舎の少年がどーんと写っちゃっているわけ。「これ、お宅のお子さんだよね?」って近所から言われたみたい。
──バレちゃってるじゃないですか(笑)。
もうね、相当…でも、ピンク・フロイドがほんとに素晴らしかったので、そこは乗り越えられたよ(笑)。
ピンク・フロイドは、ライブバンド
──すごい時代ですね。1971年ですから、ピンク・フロイドの最新アルバムは…。
『原子心母』と『ピンク・フロイドの道』っていう初期の音源を入れたコンピレーション。
──『おせっかい』は?
まだ出てないです。だからね、アルバムが出る前にボーカル付きの「エコーズ」をやったのは箱根が初めてだと思いますよ。それまではインストで演っていて誰も知らない曲だったから。その年の秋に『おせっかい』が出て、そこで初めて「エコーズ」を聴いて「箱根のあの曲だ!」って分かるわけです。ピンク・フロイドは、ライブで新曲を演奏しながら完成形にもっていったらしいので、箱根のステージは「エコーズ」の歌詞付きの原型として初めて公開されたものなんですね。
──それはすごい。
『原子心母』で来日し、その後にすぐ『おせっかい』がリリースされましたから、日本人にとってはその2枚は非常に重要なものなんですよ。
──ピンク・フロイドって、レコーディング作品の芸術性において高い評価を受けたわけですが、実はれっきとしたライブバンドですよね。
本当はライブバンドなんです。ただね、数年前にイギリスのピンク・フロイド展に行ったんですけど、初期からものすごい機材を使っていたのがわかる。ライブバンドでありながらレコーディングでものすごく実験的なことをずっとやり続けていたんですよ。「これがループを作った機械」とか「あのときの音を作ったミニシンセサイザー」とか、すごく実験的なことをアナログレコーディングでやっていた。