第16回 語り手:江口譲二(interblend inc.)
──仕事で関わる以前、音楽ファンとしての江口さんの渋谷公会堂に関する思い出というと?
高校2年の時に、デフ・レパードの初来日公演を見に行ったのが最初だと思います。雪が積もってる中、埼玉から見に来たのをよく憶えています。僕は洋楽少年だったので、そういう人間からするとめぼしいライブはほぼ渋公か新宿厚生年金か中野サンプラザでしたから、その3つにはしょっちゅう行ってました。ただ、当時は終電が新宿で10時とか、そういう時代でしたから、ちょっと長いライブだと最後まで見られない、ということもあったりしましたね。
──ステージを作る側になってからの最初の渋公は?
大学1年の時なんですけど、僕が入ってたサークルが年間を通してイベントをやってて、確か6月だったと思うんですけど、渋公でイベントをやったんです。1年だったんで、無理やり着ぐるみを着せられてオープニングで登場!となったんですけど、前が見えないままやっててステージから落っこちたのを憶えてます(笑)。
──渋公を借りてイベントを開催するなんて、すごく本格的なサークルだったんですね。
そうですね。ちゃんとスポンサーも付いてましたから。学生が学生のバンドを応援するという主旨のイベントで、地方大会が方々で行われて、その決戦大会を渋公でやってました。
──では、もう学生の間に渋公のバックステージは何度も経験したんですね。
そうですね。毎年、そのイベントで行ってましたし、その絡みでゲストに出てくれたアーティストさんのライブを見に行ったりもしてました。
──予選もやってたということは、渋公以外のホールも学生時代にすでにいろいろ経験したんですか。
そんなに数は多くないですけど、例えば府中グリーンプラザとか、いくつかローカルな会場もやりました。
アーティストにとっては、渋公というのは何か特別なものだと思うんです
──そういう比較対象がある中で、渋谷公会堂というホールについて当時はどんなふうに感じていました?
当時からもう僕の中には“聖地”という感覚があったので、何をやるにしても、全てが重いというか(笑)、緊張する会場ではありました。しかも、当時は搬入は正面からやってたんです。そういう会場は、後に全国ツアーの仕事をやるようになって地方にいくつかありましたけど、今はもうないですし、本当に珍しい形だったんです。
──正面から向かって左手側に搬入口ができたのは、いつ頃のことですか。
元々その左手側の搬入口はあったんです。美術セットのように分解出来ない大きな物とかで正面からでは入らない物をクレーンでつり上げて入れてたと思います。その搬入口しか使えなくなったのは90年代前半だったと思います。正面が整備されることになって工事が始まって、横から入れることになった時に、最初の頃は「なんで、こんなところから入れるんだ」ってみんな言ってましたね。
──そういう搬入/搬出の場面での使い勝手をはじめとして、あれだけ有名なホールなのに、渋谷公会堂はかなりスタッフ泣かせだったと聞いています。
そうなんですよ。名前がC.C.Lemonホールになる前に一度改装されて、そのタイミングで奈落のところにも楽屋ができたんですけど、それまでは地下に大部屋と、ステージの両袖の2Fに小さな楽屋があるだけでしたしね。
──フライング・キッズが初めて渋公でやるのは改装前の1990年ですが、ご自分の担当アーティストの公演で渋公に入る時には、学生時代と違う感慨はありましたか。
それは、やっぱりありましたよ。バンドも初めてだし、僕も担当アーティストがやるのは初めてだったし、気持ちが前のめりになってて、大変でもあったんですけど、それでもすごく楽しかったという記憶がありますね。
──仕事で臨んだライブの記憶が「楽しかった」というのは、どういうライブなんでしょうね。
バンドの演奏がいいのは当たり前なんですけど、ライブ中に僕らが見てるというか、気にしてるのはお客さんの表情なんですよ。そこで、もしかしたらお客さんは泣いてるかもしれないし、笑ってるかもしれないし。それにしてもお客さんが喜んでいることを感じられるのが一番嬉しいんです。で、考えてみると、僕がステージ制作の仕事を始めて、お客さんの顔を見るようになったのがちょうどこの時期だと思うんです。だから、楽しいと思えるようになったというか、そういう感覚でライブに臨むようになって最初のライブだったから、「楽しい」という感じが特に記憶に残ってるんじゃないでしょうか。
──ステージに立つ人たからすると、渋谷公会堂というホールはあまりいい音じゃなかったという方も少なくないですよね。
当時はそうでしたね。自分がやってる現場は、PAさんといろいろ相談しながらやってたんで悪いと思ったことはないんですけど、でもよその現場を見に行った時に“変な音だな”と思ったことはよくありました。いわゆるポップスの歌モノだとそうでもないんですけど、爆音系はどうしても良くないんです。で、フライング・キッズもかなり音はデカかったから、よその現場で“こうすると、こうなるのね”みたいなことはいろいろ研究してました。
──ただ、何か問題点を見つけた時に、改善しやすいホールと改善しにくいというか、工夫がしにくいホールがあると思うんですが、渋谷公会堂はどうでしたか。
渋谷公会堂は、なんと言ってもそこでやる回数が他の会場に比べると圧倒的に多いですから。年に1回しか行かないようなところだと、やっぱり“どうだったっけ?”ということになるんですよ。そういう意味では改善しやすいというか、やるたびに良くしていくことはできていたと思いますよ。それと、C.C.Lemomホールになる前と、その後とではずいぶん音が違ったと思うんですけど、それは機材の進化ですね。2000年代に入ってからの機材の進化は凄いですから、そこの違いは大きかったと思います。もちろん、ステージ上の音も変わってますから、それ以前にやってたミュージシャンと、それ以降に渋公を経験したミュージシャンとでは印象は違うと思います。
──学生時代に初めて制作で入った頃からすでに“聖地”というイメージがあったという話がありましたが、そういう特別な会場と向き合う上で、何か意識していたことはありますか。
アーティストにとっては、ライブハウスから始めて、お客さんをだんだん増やしていって、その先の渋公というのは一つの節目というかステイタスというか、何か特別なものだと思うんです。そのポイントを軽々と飛び越えてしまうアーティストもいれば、なかなか売り切れなくて何度も挑むアーティストもいて、それはどっちもいいと思うんですけど…。僕が思うのは、飛び越えてしまったアーティストが、ずっと売れ続ければいいですけど、そうじゃなくなることもあるわけで、そういう時に帰る場所があるといいなということです。で、渋谷公会堂がそういう意味での帰る場所になるといいなと思うので、そのことは意識しながら組み立てましょうという話は、いろんなプロダクションの方とよく話します。具体的には、軽々飛び越えたとしても、なるべく一度渋公で立ち止まろう、ということですよね。で、先に進む場合は満を持して進む、と。そうすれば、帰って来やすいだろうと思うんですよ。
──フライング・キッズは駆け足で渋公までたどり着いて、最初の渋公もあっさりと売り切ってしまったわけですよね。
確か、そのライブはツアーじゃなくて1本だけだったんですけど、その年の秋のツアーでまた渋公をやることが決まってたんです。しかも、その前に夏の野音も決まってて、今から考えるととんでもない勢いでどんどんライブをやってたんですよね。それから『ゴスペルアワー』(92年5月リリース)というアルバムを出した後だったかな、その時期の渋公もすごく印象に残ってて、CDセールス的にいちばん落ち込んだ時期でレコード会社が契約更新をしないと言い出してたのが、その渋公を見て契約が更新されることになったという。それくらいいいライブだったんですよ。
──“帰る場所としての渋公”というのは、フライング・キッズについても意識していたことですか。
バンド全体でそういう意識が共有されていたかと言えば、それはちょっと微妙ですが、少なくとも僕はそう思っていましたね。
──スタッフ・サイドがそういう意識で組み立てていくことで“帰る場所としての渋公”という空気が作られていくと、そういう空気の中ではいいライブになる確率も高まるから、そういう相乗効果の結果として、そこが帰る場所というかホームグラウンドみたいになっていくという流れがありますよね。
あります、あります。それに、そういう流れが出てくると、お客さんの意識としても、例えば“フライング・キッズのホームは渋公”みたいな空気が生まれてくるんですよね。そうすると、“フライング・キッズが渋公やるんだったら行かなきゃ”というふうになっていくんです。