第14回 語り手: 人間椅子
人間椅子は、80年代後半のバンド・ブームに続いて起こった、テレビのオーディション番組「三宅裕司のいかすバンド天国」(イカ天)のブームのなかでメジャー・デビューのきっかけをつかんだバンドだ。その時期には、ロック・バンドがブレイクしていくプロセスがシステム化し、そのシステムの流れにのって渋谷公会堂公演を実現するバンドも少なくなかった。
人間椅子もそうしたバンドの一つと言えなくもないが、特筆すべきはその後ライブ・シーン全体も冷え込んだ時期をくぐり抜け、2015年に再び渋公に登場し、しかも前回は果たせなかったソールドアウトを実現したことだ。
そんな彼らにとっての渋谷公会堂とはどんなホールなのか?メンバー3人に聞いた。
人間椅子もそうしたバンドの一つと言えなくもないが、特筆すべきはその後ライブ・シーン全体も冷え込んだ時期をくぐり抜け、2015年に再び渋公に登場し、しかも前回は果たせなかったソールドアウトを実現したことだ。
そんな彼らにとっての渋谷公会堂とはどんなホールなのか?メンバー3人に聞いた。
──人間椅子が初めて渋谷公会堂公演を実現したのは1991年ですが、そのステージは憶えていますか。
和嶋慎治(Vo&Gt)これは確か2ndアルバムを出した時のツアーでやったんですけど、“渋谷公会堂に僕らが出ていいんだろうか?”という感じでしたよね。デビューしてまだ2年目だから。すごく有名な人がやってるところというイメージでしたから。「紅白歌のベストテン」って、渋谷公会堂ですよね?
──はい、そうです。
和嶋だから、子供の頃にテレビで見ていた歌番組の収録場所ということですよね。それはやっぱり、すごいところでやるんだなという感じでしたけど、でもそういう感慨さえ湧く間もなくワーッてやっちゃったような気もするんですけど、どうでした?
鈴木研一(Vo&Ba)全然、憶えてないんですよ。
和嶋(笑)。
鈴木そこでやったことさえ憶えてないんですけど、紗幕を使ったのは渋公ですか?
和嶋それは違うんじゃないかな。
鈴木じゃあ、全く憶えてないですね(笑)。
和嶋いま思い出したけど、やっぱり渋公は特別感がありましたよ。ゲネプロみたいなことをやったもの。普段は練習スタジオで練習するだけだったけど、でも渋公の時にはどこか広いところでスタッフもいっぱい呼んで、その中で練習しましたからね。その様子はビデオにも収録されてるはずです。ただ、若かったですからね。そんなに緊張することもなく、ただがむしゃらにやってたような気がしますね。
鈴木「紅白歌のベストテン」と聞いて思い出したけど、あの番組に「今日は、修学旅行で○○中学の皆さんがいらしてます」「わ〜!!」みたいなシーンがあるじゃないですか。そこで、その修学旅行生の生徒会長にマイクが向けられるんですよね。ウチの学年は毎年その番組の観覧に行ってて、一つ上の学年の生徒会長がインタビューされていたので、翌年の生徒会長だった自分は心の準備をしていたのですが、その年は渋公には行かず、松竹歌劇団を観に行ったんですよね。
和嶋その憧れの渋公に、91年に出たんですけどね。
──でも、全く憶えてないんですよね(笑)。
鈴木(笑)、修学旅行で行けなかったことは憶えてるんだけど。
和嶋「21世紀の精神異常者」を替え歌にしてやった時だよ。
鈴木ああ、あれが渋公。
和嶋「ヘヴィメタルの逆襲」という曲があって、それが途中からなぜか「21世紀の精神異常者」になるっていう。それは確か事務所のアイデアでやったと思うんですけど、そういう演出が必要なのか、と思いましたね。つまり、ショーをやるのかっていう。
鈴木やっぱりこういうことは向いてない、と思ってそれ以降はやらなくなったんだよね。
和嶋そう。曲をいじるのは好きじゃないなと思いましたね。
──ライブ会場としての渋公について、例えば舞台の広さや客席との距離感、あるいは音響的なことについての記憶は何かありますか。
和嶋それは、ないですね。憶えてないです。ということは、やっぱり会場に呑まれてたんでしょうね。
──ノブさんはまず、GENのメンバーとして1989年に渋谷公会堂のステージを経験していますが、その時の記憶はありますか。
ナカジマノブ(Vo&Dr)あります。というか、すごく憶えているのが、気合いが入り過ぎて演奏が全て速くなってしまったということですね(笑)。
──(笑)、逆に言えば、渋谷公会堂というのは気合いが入り過ぎてしまうくらいの場所だったということですか。
ナカジマそうですね。僕は、小学校の時に「8時だョ!全員集合」を観に行ったことがあって、それからなんとなくのイメージとして渋公というのは洋楽のアーティストがコンサートをやるところというふうに思ってたから、まさかGENでやれるとは思ってなかったんですよね。それから勝手なイメージとして、渋公でやるんだったらステージセットがあるだろうと思い込んでたんだけど、行ってみたらそんなものはなくて(笑)、それでもすごく嬉しかったですね。渋公でやれたぜって。
──その時の会場の様子やお客さんの反応で何か憶えていることはありますか。
ナカジマその時はいっぱいにはならなかったんですけど、でも演奏が始まったらお客さんが前に詰めかけてきて、ライブハウスでやるような感じで演奏したのを憶えています。
──人間椅子は、渋谷公会堂の向かいにあるeggmanでライブをよくやっていたようですが、向かいの渋公を眺めて“俺たちもいつかあそこでやるぜ!”みたいなことは思っていたんですか。
和嶋それは……なかったですね。もういろんな伝説のライブみたいな話があって、そういうところで自分たちがやれるとは思ってもなかったし。で、91年にやった時、僕らも全然埋まりませんでした。
──ということは、90年前後の頃にはもう「勢いでやってしまえ!」という感じだったんでしょうか。
和嶋全体が、そういう流れだったんでしょうね。
ナカジマ僕らも、“絶対に渋公でやりたい!”というようなビジョンがあってやったわけではないと思います。単純に、会場が少しずつでも大きくなっていったらいいなということしか考えていなくて、東京の場合は最終的には日本武道館があって、その前に渋公や中野サンプラザがあるというイメージで、ただ単に憧れてたという感じだったと思います。
──ノブさんはその後、98年にドミンゴスの一員として再び渋公のステージに立ちましたが、その時のことで何か印象に残っていることはありますか。
ナカジマ最初の時よりも少しでも派手にしたいなと思ったんです。ステージセットを少しでもいいから組んで、特効も使いたいし、奈落からせり上がってくるというのもやりたいしっていう。それは叶ったんです。それに、渋谷公会堂をやれるチャンスはそうあるものではないと思ってましたから、ゲスト・ミュージシャンも呼んだりして、そういう特別感が出るように考えてやったことは憶えています。