──そして、人間椅子は25周年の記念ライブを渋公でやりました。
和嶋2回目をやるのに、だいぶ時間がかかりましたね(笑)。
──この時のことは鈴木さんも憶えていますか。
鈴木やったというのは憶えてるんですけど、というのもライブが終わって片付けるのにすごい数の人がいて、“そうか。渋谷公会堂というのはPAシステムを全部入れなきゃダメなんだ”ということに終わってから初めて気づき、たくさんの人に手伝ってもらって初めてやれるライブだったんだなあということに思い至ったという。そういう記憶があります。
──ステージの内容に関して何か憶えていることはありますか。
鈴木……。これってビデオになったりしてる?
和嶋なってるよ(2015年7月1日にBlu-ray・DVDとして発売)。前回もそうしたように、みんなも渋公は映像を撮ったほうがいいってなるんですよ。だから、それぞれにやっぱり思い入れがあるんでしょうね。
──和嶋さんは、2回目の渋公について何か憶えていることはありますか。
和嶋前回がデビュー2年目で早過ぎた渋公だったのかなと思うんですけど、僕のなかでは2013年にOZZFESTに出て、アルバム『萬燈籠』を出したあたりでもう1回デビューしたような感覚があるから、それから2年を経てこの渋公ですよね。つまり、再デビューして2年後に渋公ですから、とても順調に進んでいるように思えて、すごくうれしかったのを憶えてます。それまでの20年近くは渋公なんて考えられるような状況じゃなかったから、この2回目の渋公の時はすごく緊張して足が震えちゃってましたから(笑)。
──では、再デビュー以降、自分たちがいい足取りで進めていることを実感した場面だったわけですね。
和嶋いままでやってきたことが認められた感じがしましたね。で、その時にはお客さんを見る余裕もあったんでしょうね。足は震えてましたけど(笑)、着物を着ているお客さんとかいて、みんながすごく喜んでくれている感じがして、それもうれしかったですね。
──ノブさんは、3回目の渋公はいかがでしたか。
ナカジマその時は、僕が3人を代表して、本番当日の前から動いてたので、すごく印象に残ってます。僕らは事務所がなくて、剥き身で僕ら3人だけだから、いちばん最初の打ち合わせから僕が参加して、ゼロから作った、作り上げた!という感激がありました。打ち合わせの時、「事務所の方はどなたですか?」と聞かれて「メンバー代表で僕が来ました」と答えたら、渋公の方にすごく驚かれたのもよく憶えてます。「えっ、メンバーが来てるんですか。そんなの、初めてなんですけど」って(笑)。それから、渋公がツアーのファイナルだったんですけど、どこかの地方に行ってる時にソールドアウトの知らせが届いたんです。その時もうれしかったですねえ。その前2回の渋公はソールドアウトしなかったですから。
──前半の話にもありましたが、80年代の前半くらいまでは「8時だョ!全員集合」と「紅白歌のベストテン」の会場というイメージが強かったこのホールが数年の間に“ロックの殿堂”というようなイメージを持つに至ったのは、このホールにはどういう要素があったからだと思いますか。
和嶋“ロックの殿堂”と言われるようになる条件があるとすれば、公営の施設であるということは一つ大きいんじゃないですか。武道館もそうですけど。元々アウトサイダーの音楽だったロックが、そういうパブリックの空間にたくさんの人を集めるというところに伝説化したくなる何かがあるのかもしれないですね。
──なるほど。ありがとうございました。