第13回 語り手: 宮田和弥[JUN SKY WALKER(S)]
1980年代後半から90年代初めにかけて日本の音楽シーンを席巻したのがいわゆるバンド・ブームだが、その潮流をザ・ブルーハーツやユニコーンらと共にリードしたのがJUN SKY WALKER(S)だ。原宿・歩行者天国(ホコ天)でのライブで注目されてメジャー・デビューを飾るという経歴も型破りなら、メジャー・デビュー後、最初のライブを渋谷公会堂で行うという展開もセンセーショナルだったが、それは全て彼らの圧倒的なライブ力ゆえに可能なことだった。
そして、そのライブの魅力の大きな部分を担っているのが、フロントマン・宮田和弥だ。天性のライブ・パフォーマーとも言える彼は、“ロックの聖地”渋谷公会堂をどんな思いで見つめ、そこで何を感じていたのか。
そして、そのライブの魅力の大きな部分を担っているのが、フロントマン・宮田和弥だ。天性のライブ・パフォーマーとも言える彼は、“ロックの聖地”渋谷公会堂をどんな思いで見つめ、そこで何を感じていたのか。
“いつかここでやれたらいいなあ”という夢を持ちながら通った記憶があります
──和弥さんは東京のご出身なので、渋谷公会堂の存在は子どもの頃からご存知だったんじゃないですか。
「8時だョ!全員集合」をやってるところっていうことですよね。行ったことはなかったんですけど。それでも、NHKが隣だし、代々木体育館とか原宿とか、そういうところに行く時よく通ってました。ホコ天をやってる時には、“いつかここでやれたらいいなあ”という夢を持ちながら通った記憶があります。
──渋谷公会堂を音楽ホールとして認識するのは、中学生くらいですか。
どうだろう…。やっぱりBOØWYくらいからですかね。武道館もそうなんですけど、ホールというのは夢のまた夢というか、そういう感じだったんですよ。当時の渋谷だったらLa.mamaだったり…、そこで門池(三則)さん(※編集部注:現バッド・ミュージック 代表取締役)と出会うわけですけど。新宿だったらロフトだったり。“ここでやりたい!”という現実的な目標が、最初の頃はやっぱりライブハウスだったので。だから、渋谷公会堂でいろんなコンサートをやってることは知っていたけど、エンターテイメントの場というか、雲の上の世界のような感じでしたね。ただ、ジュンスカはインディーズ時代のカセット「白いクリスマス」の発売イベントを、当時公園通りにあったCSVというところでやったんですけど…。
──駅から公園通りを上っていくと、坂の途中の右手にあったオーディオ&ビジュアル・ショップですよね。
そうです。そこで、僕らが「白いクリスマス」のカセット発売ライブをやったその日に渋公ではBOØWYがやってて、そこで彼らは解散を発表したんですよね。僕らが「これから、そこに行くぞ」という状況になってきた時にBOØWYはそういうことになって、という。そういう時代でしたね。僕らはもちろんBOØWYも大好きだったから、“このCSVの次のステップは渋公だ!”と、そこからいよいよ渋公を意識し始めた記憶があります。
──それまでの現実的な目標だったというライブハウスですが、例えば名前が出た2つのうち、ロフトではなくLa.mamaを選んだのは何か理由はあったんですか。
単純に、ロフトは敷居が高くて、なかなか出られなかったんですよ(笑)。カセット審査みたいなのがあって、それに受かればまず昼の部、そこで認められれば夜の部ということになるんだけど、そのカセット審査もなかなか受からないっていう感じでしたから。だから、当時の僕らが選んだのが、福生のUZUというライブハウスと、“高校生ロックバトル”というイベントを昼の部でやっていたLa.mamaだったんです。
──街として新宿よりも渋谷を選んだというわけではなくて、出られるライブハウスが渋谷にあったということなんですね。
そうですね。でも、当時の僕たちからすると新宿よりも渋谷でしたよ。新宿は怖いところというイメージもありましたから(笑)。その後、いろんな要素が重なって、La.mamaが僕らのホームグラウンドのようなライブハウスになっていくわけですけど、それはやっぱり門池さんとの出会い、高校2年の時だったかな、それが大きいです。頼れる大人がいるところ、それがLa.mamaだったということですね。
──門池さんによれば、その頃のジュンスカはもうすでに100人くらい動員があったそうですね。
いやいや、それはないです。僕らが通っていた自由学園という学校は人数が少なくて、1学年1クラスしかないんです。そのせいもあって、僕らはチケットを売っても10枚売れたかどうか、くらいでしたよ。だけど、“高校生ロックバトル”の対バンに、例えばThe Street Rock Fuckersというバンドがいて、それがその後the wellsというバンドになり、そこには坂巻晋というベーシストがいたわけですが、そういう対バンたちがお客さんを集めてくれて、おかげでけっこうお客さんがいる前でやれていたけど、それにしても100人はいなかったと思います。僕らがホコ天に出て行った理由は、ライブハウスにお客さんが入らないから、ホコ天でLa.mamaのノルマ分のチケットを手売りしてお客さんを呼び込もうということだったわけですから。最終的にはLa.mamaを満杯にするんだけど、高校の頃の僕たちは、La.mamaには10人くらい、多くて20人、という感じだったと思いますよ。
とにかく演奏できれば、どこでもやりたくて、そういう場所の一つがホコ天だった
──ジュンスカがホコ天に出ていく時期には、ラジカセで音楽を流して踊っている人たちはいても、演奏を聴かせるバンドというのはいなかったですよね。
いや、いたんですよ。3つくらいですけど。ある日、森純太と二人で原宿から渋谷に向かって歩いていたら、ホコ天でいろんなパフォーマンスをやってる人たちがいて、そのなかにバンドがあったんです。しかも、その一つが知り合いのバンドで、話してみたら「ここに機材持ってきたら、自分たちで勝手にやっていいんだよ」って。「じゃあ、俺たちも真似しよう」ということで始めたんです。だから、僕らが始めた時バンドは全部で5つくらいでした。それが、翌年かな、ワーッと増えていってホコ天ブームということになりましたけど、最初は友達がやってたのを真似て始めたことだったんです。
──ホコ天でやるにあたって、その場所向けに何か意識したこと、工夫したことはありましたか。
どうでしょう…?ステージを1日3回やるんですけど…。昼の12時に道が封鎖されて歩行者天国になるので、そこから楽器を広げて、夕方の6時までの間の6時間、片付ける時間が30分から1時間くらいかかったから、それを引いた5時間の間に3ステージやるんです。で、そのステージの合い間にカセットテープを売ったり、ジュンスカのことをいいねと思ってくれてる人たちとコミュニケーションをとったりして、それでチケットを売ったり。そんなふうにやってる間にブームがやってきて、僕らもメジャー・デビューすることになるんですけど。
──例えば路上ライブから登場してきたアーティストに聞くと、「通り過ぎる人たちをとにかく立ち止まらせることだけを考えて演奏する曲を考えていた」というようなことを話してくれるんですが、ジュンスカはホコ天用のセット・リストみたいなものをあったんですか。
そういうものもあったと思いますけど、とにかく俺たちはいろんな場所で演奏したくて。だから、ホコ天だけじゃなくて、例えば地元の生協のお祭りで演奏したり、それから横浜の歩行者天国にも出かけて行って演奏したんですよ。その時は隣のクラシックのホールの人に、「音がうるさい」と言って、途中で電源を抜かれたんだけど(笑)。とにかく演奏できれば、どこでもやりたくて、そういう場所の一つがホコ天だったということなんですよね。だから、俺たちの気持ちとしては単純にたくさんライブをやりたいっていう。それだけなんです。もちろん、その中には「チケットを売りたい」とか「知ってもらいたい」という気持ちも含まれてはいるんですけどね。