渋谷公会堂物語 第11回 語り手:望月展子(ぴあ株式会社)“雑誌編集者という立場で体感した1980年代以降の東京の移り変わり”

コラム | 2019.02.13 11:30

第11回 語り手:望月展子(ぴあ株式会社 ぴあMOOKS編集長 兼 「ぴあ」〈アプリ〉音楽担当)

望月展子さんは、音楽のみならず、映画や演劇など様々な表現が立ち上がり、交錯する、東京というシーンの1980年代以降の移り変わりを、雑誌編集者という立場で体感してきた人だ。その人の目から見た渋谷という街は、そして渋谷公会堂というホールは、どういう“場”だったのだろうか?
──望月さんは、ご出身はどちらなんですか。
東京です。両親は関西の出身なんですが、父が東京に赴任している時に生まれて育っているので、4年ほど京都に住んでいましたが、基本は関東の人間ということになりますね。一番長く住んだのは大田区でした。
──とすると、望月さんのなかの渋谷公会堂というのは、各地にある市民会館みたいな感じですか。
渋谷区のホール、という感じです。ただ、子供の頃はもちろん渋公に行ったことがなかったですから、イメージとしては“ドリフのホール”の感じが強かったですね。コンサート・ホールというよりは、「8時だョ!全員集合」とか「トップテン」とか、そういう番組の会場というイメージだったと思います。
──10代も後半になってくると、自分でコンサートに出かけたりしたと思いますが、そういうコンサートの会場は例えばどこだったんですか。
親が行くことを許してくれるロックのコンサートの会場が限られてましたから、やっぱり武道館とか…。クイーンやエアロスミス、キッス、ベイ・シティ・ローラーズの武道館とか行きましたね(笑)。
──では、渋谷公会堂に音楽コンサートを見に行った、一番最初の記憶は?
それが、全然記憶になくて、もしかしたら仕事を始めてから、かもしれません。高校の頃はまだそんなに頻繁にコンサートに行ってたわけではなかったし、大学ではフュージョン寄りのバンドをやっていたので、新宿と六本木のPIT INNとか、そういう系統のライブハウスによく行っていたので。
──では、仕事絡みで出かけたものまで含めるとすれば、いちばん最初の渋公の記憶は?
多分、大瀧詠一さんのヘッドフォン・コンサートだと思います。81年12月ですね。私がぴあに入った年なんですが、その年の5月くらいにぴあ編集部の音楽班に配属になって渋公にも何度か行ったんですけど、とにかく印象に残っているのは大瀧さんのそのコンサートです。だって、目の前でやっているライブをヘッドフォンで聴くんですよ(笑)。“何なの、これ?”という世界ですよね。おそらく、大瀧さんからすると、ライブの音が良くないからそういうことをやったんだと理解して、それで私も“渋公は音が良くないんだ”と思ってました(笑)。
──(笑)。その当時の、渋谷の駅から渋公までの道すがら、街の様子はどういう感じでしたか。
もうセゾン文化の発信地になってました。渋公に上っていくあの通りに「公園通り」という名前がついて全国的に有名になっていったあとですよ。
──81年にぴあに入られたということは、80年代とともにキャリアが重ねられていったわけですね。
そうです。当時はエンターテイメントというよりもカルチャーという言い方をしてましたけど…。それも“軽チャー”という言い方でしたが、音楽だけじゃなく、いろんな面白いことが起きている現場に関わりたいと思っていました。当時の公園通りはまさにその発信源で、その上りきった先に渋谷公会堂があったわけです。後に、バービーボーイズの杏子さんだったかが「この坂を上っていくぞ!」とおっしゃったように、坂を上りきって渋公でライブをやったら次は武道館、という“成り上がりロックロード”みたいなイメージが定着したのが80年代の半ばくらいでしょうか。レベッカやBOØWY、それにバービーボーイズ、米米CLUBなどが出てきて、ぴあで扱うチケットの売上枚数でも邦楽が洋楽を抜いていく時期でもありました。

80年代半ばは、同時多発的に、世界のあちこちで新しい都市文化が生まれていました

──このインタビュー・シリーズでお話を聞いた田家秀樹さんによると、70年代までの渋谷という街は「田舎だった」ということなんですが、その街が80年代に入ってセゾン文化の発信地として盛り上がっていく状況を見ていて、望月さんは当時どんなことを感じられていましたか。
当時、「ロンドン、ニューヨーク、パリ、東京」とよく言われていて、それはつまり大阪や名古屋と並べるのではなくて、「一緒に並べるならロンドンやニューヨークだろ」っていう。同時多発的に、世界のあちこちで新しい都市文化が生まれているっていう、今から考えるとちょっと調子に乗ってる感じは、あったと思います。

1987年10月17日 公園通り風景(提供:渋谷区)

──セゾン文化が一世を風靡するなかで、その象徴的な存在だったYMOは漫才のテレビ番組に出たりしたわけですが、そこまで極端ではなくて、音楽アーティストとしてシーンの先頭を走っているような人が活字の世界やアートの世界にも入っていくような、昔の言葉で言えばクロス・カルチャー的な動きを、音楽ファンとしての望月さんはどんなふうに感じていましたか。
私は、まさにそういうことをやりたくてぴあに入ったようなところがあって、当時のぴあが扱っていた「映画」「音楽」「演劇」「アート」のなかでは私は音楽寄りの人間ではありましたが、それでもロックにひたすら入り込むのではなくて、むしろ例えば坂本龍一さんがローリー・アンダーソンやナム・ジュン・パイク、ヨーゼフ・ボイスたちと共演したように、「音楽とアート」とか「演劇と音楽」とか、あるいは「写真と音楽」とか。つまり“音楽はカルチャーの接着剤なんだ”というような感覚があったんです。音楽のフィールドで仕事をしているとどんなジャンルとも繋がれると思っていたら、この会社に入って音楽担当になったので、“こういうことをやればいいんだ!”と思って、そういう動きをなるべく近くで見ようとしていました。

“音楽はカルチャーの接着剤なんだ”というような感覚があったんです

──「音楽は接着剤」と言われましたが、望月さんが編集長を担当された「ぴあmusic complex」の創刊号の編集後記を見ると、80年代を通してどんどん多様化し、情報も溢れるほどになった音楽状況をより楽しむためのキーワードとして“complex=複合”ということを考えた、と書かれています。その創刊号が出たのは1989年10月ですが、音楽といろんな表現がつながっているという感覚はそれよりもはるか以前、80年代の初めの時点でもう感じていたわけですね。
そうですね。そういう感覚は高校生の頃からあったと思います。ただ、この誌名になった“complex”は社内公募で出てきた言葉なんです。当時、パリあたりでシネコンが登場し始めていて、それで「“cinema complex”という言葉があるから“music complex”はどうですか?」という提案が出てきて、私は“これだ!”と思いました。
──高校生の頃からあったと言われた「音楽は接着剤」という感覚が、80年代を通して積み重ねられたキャリアと“complex”という言葉を得て、具体的な形になったのが「ぴあmusic complex」という雑誌なんですね。
邦楽ロックが大きなビジネスになっていく、その胎動期にこの会社に入ったのは大きかったと思います。今でもよく憶えているんですけど、1984年にチケットぴあのプレイガイド事業が始まる時は、劇団四季の「キャッツ」とウドーさんの洋楽コンサートが二本柱だったんです。その後、ウチで扱うチケットに関しては80年代後半に邦楽が洋楽を追い抜くということがあって、衝撃を受けました。それから、私は新入社員の年にライブハウスの情報を担当していたんですけど、私が入った頃はライブハウスのページの最初は新宿エリアだったんです。ところが、渋谷のライブハウスがどんどん増えていって、LIVE INNのような大型のライブハウスもできて、だからページ割りを考える際に渋谷の割合がどんどん増していくわけです。そこで、渋谷という街のパワーが高まっていることを強く感じました。「渋谷が最初のほうがいいんじゃない?」という話をしたのを憶えています。そういう時代だったんですよね。そこに、同時多発的にいろんな才能が出てきたり、あるいはEPICソニーやミディのように邦楽だけどすごくレーベル・カラーのはっきりしたレーベルや、メジャーと比肩するようなインディーズ・レーベルが出てきたりして、ビジネスまで含めた“日本ロック・カルチャー”みたいなものを、80年代を通して、この会社で吸収したように思います。

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