チケット代が発生するライブに初めて出たのは、高校の友達と組んでいた「オレンジクラッシュ」というバンドでしたね。ギターが弾ける軽音部のやつがいたので、僕はベースボーカルをやることにして。そしたらドラムが叩けるやつがいて、じゃあ一緒にやろうよって誘って。青春でしたね。その頃は地元の大阪に住んでいたので、スタジオでたまたまBOREDOMSと遭遇して「かっこいいなあ」と思って見たりしてました。
初ライブは結構大きなライブハウスだったんだけど、お客も呼べないのになぜか出してくれて、その理由を後々訊いたら「曲が良かったから」と言ってもらって。全員楽器が下手すぎてコピーしようにもできないから、オリジナル曲をやるしかなかったんですよね(笑)。当時18、19歳くらいで演奏もバラバラで。お客さんも全然いないから、ものすごいノルマ代を払った(笑)。それでも友達が何人か観に来てくれてうれしかったですね。
音楽の道に進もうと決めていたのは僕だけだったから、結局そのバンドは3回ぐらいライブをして解散しちゃって。そのあと上京して木下理樹名義で音楽活動を始めて、ソロライブのサポートをしていたひなっち(日向秀和/Ba)と櫻井くん(櫻井雄一/Dr)と、ギターが純くん(大山純/Gt)に変わったタイミングでART-SCHOOLというバンド名をつけました。
それが2000年の3月で、その直後に初ライブをした。確か下北沢GARAGEだったかな? お客さんは少なかったけど、やっぱりバンドを組んだばっかりだから、あんまり深くいろんなことを考えていなかったし楽しかったですね。緊張とかもなく、「これからもっともっとこのバンドは大きくなっていくんだな」と思いながらステージに立っていました。
それでその年の9月に初めての全国流通盤の「SONIC DEAD KIDS」を出したんだけど、反響があるかと思いきや『ROCKIN’ON JAPAN』のディスクレビューにちっこく載ったのと、ミニコミ誌が1誌だけ取り上げてくれたくらいで、それ以外の反応が何もなくて……。「嘘でしょ!?」って本当に驚いたんです(笑)。
僕がローファイや、ボーカルの声が小さいミックスが好きだったんですよ。だから「SONIC DEAD KIDS」の音作りもそんなふうにしたんだけど……。あまりにも取り上げられなさ過ぎてて……。きついなって……。これは相当頑張んなきゃいけないぞと思った(笑)。それで「MEAN STREET」(※2001年4月リリース)をめちゃめちゃクリアな音作りにして、わかりやすくしたんですよね。
PRESENT
木下理樹 直筆サイン色紙を1名様に!
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