加藤登紀子&六角精児対談[前編]。終戦記念日の翌日に共演するふたりによる、フォークソング、平和、路上など、率直で活気あふれるトーク

インタビュー | 2025.07.17 19:00

加藤登紀子と六角精児との対談は、特別コンサート『加藤登紀子のフォークソングに乾杯!~戦後80年、戦争を知らない子どもたちへ~』(8月16日に東京・有楽町よみうりホールで開催)に六角がゲストとして出演することを受けてのものである。このコンサートは、フォークソングの魅力を伝えると同時に、歌を通して平和の大切さについて考える機会を提供するとの趣旨がある。六角以外のゲストは、トワ・エ・モワ、Yae(ヤエ)、白鳥マイカで、加藤登紀子とトワ・エ・モワはフォークソング・ブームを牽引した世代、Yaeと白鳥マイカはフォークソングの精神を受け継ぐ世代である。俳優の六角精児はその中間の世代と言えるだろう。彼自身も六角精児バンドとして精力的に音楽活動を行っており、フォークソング好きとしても知られている。実はこの対談の直前に行われた打ち合わせが、二人の初顔合わせだった。しかし、とても初対面とは思えないほど率直で活気あふれるトークとなった。フォークソング、平和、路上など、テーマが自在に往き来する対談を前後編でお届けする。
──8月16日開催の特別コンサート『加藤登紀子のフォークソングに乾杯!』にゲストとして六角精児さんが参加されます。
加藤登紀子(以下加藤)実は、このコンサートの出発点となったのは、六角さんのようにフォークソングをこよなく愛していらっしゃる方がいることなんですよ。先ほど打ち合わせをさせてもらいましたが、六角さん、私よりもフォークソングに詳しいですから(笑)。
六角精児(以下六角)いやいや、僕は加藤さんがコンサートを開催されるというので、“レジェンドに会ってみたい”と思ったことが、参加させていただく大きな動機でした(笑)。
加藤年齢的に、私ってレジェンドなんですね(笑)。
六角だって子どものころに、加藤さんが「酒は大関こころいき」って歌われているのを聴いて育っていますから(笑)。
加藤そうか。私の顔で最初に浮かぶのが「酒は大関こころいき」なのね(笑)。
六角最初は「知床旅情」です。でも、その次は「百万本のバラ」ではなくて、「酒は大関こころいき」でした(笑)。もちろん、加藤さんといえば、シャンソンからスタートして、幅広く活躍されてきたことは承知していますが、何よりも大きいのは加藤さんという存在ですね。その加藤さんと直接お話できるのがうれしくもあり、傍からみると、なんの距離感もなくぶしつけに話しているように見えるかもしれませんが、これでもかなり緊張しています(笑)。

──『加藤登紀子のフォークソングに乾杯!』では、1960年代後半から1970年代前半にかけてのフォークソングが多く演奏される予定です。それぞれ当時のフォークソングについて、どのように思われていますか?
加藤私は日本でフォークソングが生まれる瞬間に、その渦中の中にいたから、あまりにも近すぎて見えないところがあるんですね。でも六角さんは、リアルタイムではなくて、後追いだからこそ、わかることがあると思いますよ。
六角確かに後追いだからこそ、いろいろなことを知れているところはあるかもしれません。加藤さんが渦中にいらした頃は、情報はほとんどなかったわけじゃないですか。その違いは大きいと思います。
加藤そもそも私はフォークソングという枠組みの中には入っていなかったのよ。六角さんの理解では、私はフォークソングですか?
六角いえ、加藤さんはフォークソングというよりも、“音楽”ですよね。
加藤そうですね。「知床旅情」はフォークソングじゃないわよね。“歌”ですね。
六角「百万本のバラ」もフォークソングではないですよね。
加藤私は1966年に「赤い風船」という曲で新人賞を受賞したんですね。同時に受賞したのが荒木一郎で、1966年は激震の年でした。演歌全盛の時代に自作自演の歌手が脚光を浴びたため、反発する人がたくさんいたからです。映画監督の大島渚が「僕は今年のレコード大賞新人賞を認めない。大衆が支持する音楽ではない」という演説をして、乱闘騒ぎになったくらいでした。時代の転換点ですよね。

──1966年は、マイク眞木さんの「バラが咲いた」がヒットして、フォークソングという存在が日本国内で広まり始めた年でもありました。そして、1967年末にザ・フォーク・クルセダーズが「帰って来たヨッパライ」でデビューして、大ヒットしました。
加藤六角さんがおっしゃるように、私は渦中にいたので、何がどう起こっているのか、全貌は見えていませんでした。「帰って来たヨッパライ」がヒットした時、私はザ・フォーク・クルセダーズに少し嫉妬したわけ。“こいつらって、なんなの?どこから来たの?”って(笑)。結局、私がフォークギターを弾きながら、「ひとり寝の子守唄」を歌うまでに2年かかりました。1969年はいわゆる新宿西口のアンダーグラウンド・フォークがどんどん出てきた年でもありました。
六角地下広場のアンダーグラウンド・フォークですよね。
加藤最初に関西フォークが出てきて、その後、学生運動が崩壊していく中で、関東のアンダーグラウンド・フォークが出てきました。

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