自分の好みかは別として、認めざるを得ないものを持ってる人だけが残る
逹瑯あと、活動も10年超えてくると、同じバンドでやってる人が回りに少なくなってくるから。昔から知ってるバンドとかは、自然と仲間みたいな感じになってきて。「昔はすれ違っても挨拶もしなかった人も、ずっとやってると戦友みたいな感じに思えてくる」って、先輩のバンドマンも言ってたけど、その通りだと思う。
杉本長く残るアーティストって、ちゃんと理由があるしね。それが自分の好みかは別としても、認めざるを得ないものを持ってる人たちが残っていくから。当時から「いいな」と思ってた人が、ちゃんと残ってますね。
──他とは違う、なにか突出したものを持ってる人だけが残ると。確かにそうですね。
杉本結局、好きも嫌いも自分に出来ないことをやってる人が気になるんですよ。そこに嫉妬もしちゃうし。
──seekさんはWaiveとMUCCに対して、「当時、この2バンドを蹴散らさないと上に行けないと思ってた」と以前の記事で話していました。
seekそうですね、それはいまも思ってますけどね。「Waiveがいなくなったら、もう一個上に行けるかな?」とか。
逹瑯上ってどこなの?いまや(笑)。
──わはは。2000年初期のヴィジュアル系のシーンって、渦中にいたみなさんにはどう映っていたんですか?
seek僕らはまだ上京もしてなかったんですけど、当時の印象やとヴィジュアル系ってもの自体が一回、飽和しちゃった感があって。
逹瑯2000年くらいが一番、ヴィジュアル系がカッコ悪く見えた時代だったよね?
seekそうだね。ライブハウスもLUNA SEA、X JAPAN、黒夢のコピバンが多かったのが、ハイスタとかに変わっていって。僕らが結成した後くらいから、地元のライブハウスでも「まだヴィジュアル系やってんねや!?」みたいなことを言われてたんですが。逆を言えば、飽和してるからこそ変なバンドも現れて。それはサイコもそうだし、MUCCもそう。Waiveは関西でいうところのソフトビジュアル系、ソフビみたいなジャンルの中に入ってたと思うんですけど。そういう変わったバンドが出てきたっていうのが、2000年代初頭でしたね。でもまだマネージメントやレーベルは、“第2のGLAY”みたいなのを探してて。僕らが上京するキッカケになったのが、UNLIMITED RECORDS内のPLUG RECORDSってインディーズレーベルだったんですけど。やっぱり、「GLAYみたいなバンドを探そう」ってところに、僕らみたいなのがポンッと入ってきた感じで。それがちょうど2000年くらいでした。
──世はインディーズブームで、メジャーに行くだけが手段じゃないみたいなところも、個性的なバンドを多く生み出した要因だったのかな?とも思いますが?
seekちゃんと地方にバンドがいる時代ではありましたね。
逹瑯全国に有名なライブハウスの店長がいたしね。
seekライブハウスも元気あったし。メディアの力もあったから、『Break Out』みたいな番組もあって、全国のCDショップの店長がおすすめバンドを紹介したり。僕らやWaiveが所属してたSWEET CHILDって事務所は、La'cryma Christi、PIERROT、Plastic Treeって先輩方がいてはって。僕らが所属した頃、『SWEET TRANCE』ってイベントを代々木第一体育館でやったりして、先輩方の大きさみたいなのがあったし。“メジャーデビュー”という言葉の強さみたいなものがあったし、輝きがありましたね。
──Waiveはそんな時代をどうサバイブしていこうと考えてました?
杉本僕は完全なる戦略ミスをした側ではあるんですけど(笑)。2002~2003年くらいから、青春パンクが流行り出しますけど。僕はもともとパンク好きだったのが、これが売れるんだと思って歌モノやって、ヴィジュアル系っぽいものをやってたタイプ。まさかパンクブームが来るとは、思ってもいなかったから。
逹瑯同じ世代でもLUNA SEAに憧れてヴィジュアル系に行くヤツと、Hi-STANDARDに憧れてパンクに行くヤツと、真っ二つに分かれた時代でしたよね。
杉本僕は黒夢のファンだったから、のちにビジュアル系と呼ばれるシーンも嫌いでもなんでもないんだけど。地元のライブハウスに足を運んだ時、ビジュアル系と呼ばれるジャンルの先輩方が多くの集客をしていて。まだ視野も狭いんで、キャパ350~400人の心斎橋MUSEを満員にしてるのを観て、「これが売れるということなんだ」と思ってたし。『SHOXX』とかの雑誌に載ってるのを見て、「すげぇ先輩たちだ!俺も早くプロになって、300人満員にしたい!!」と思ってました。僕はD≒SIRE(デザイア)とか、Blüeってバンドが直属の先輩だったので、先輩たちがライブをやってるのを観に行って、ライブハウスを満員にしてるのを観て「これがすごい人たちだ!」って思って。なんとなくそれをやっていくうちに、「曲が良い」と評価されるようになって。「だったら、歌が上手いボーカリストがいるというのが必須条件だよね」っていうボーカルの探し方になって。言ってしまえば、売れたくてそれをやって、その結果がWaiveってバンドだったんですけど。いざやってみると、僕の性格が根本のところで歪んでるところがあるから。「そういう曲を書き続けたらええねん!」ってものを書かないんです(笑)。マネジメントが求めてくるような売れ線の曲は、アルバムに1曲くらい。で、「俺が書いた他の曲を収録してくれないなら、辞めます」みたいなスタンスだから、アルバムで聴いたらなにがしたいかさっぱり分からない。衣装にしても、「GLAYみたいにスーツでやろう」ってスタッフが言ってくる中、一人だけ創作した珍妙な衣装を着ていたり。
──売れたくて始めたはずなのに、周りの人の言うことを全然聞かなかった(笑)。
杉本赤裸々に言っちゃうと、東京に出てきた時も、「君の名前で発表するけど、このゴーストライターを入れて、◯◯(アーティスト名)のやり方でデビューして売ろう」と言われたりもしたんですけど、「絶対そいつより、俺の方が曲いいもん」って断ったりして。「そんなラクしちゃっていいんですか!?」って乗っかってたら売れてたかもしれないけど、僕はそれに乗れなかった。
逹瑯売るための曲の書き方と自分のやりたいコアな曲のバランスって、桑田(佳祐)さんがめっちゃ上手いですよね。
杉本上手い人は上手い。ただ、それがもともと備わっていたのか、経験値で備わるのかも分からなくて。いま自分が若返ったら、当時よりは上手くできる可能性はあるけど。当時なんて、とにかくバカで良い意味で空っぽだから。「俺の曲が一番良いに決まってる」とか、「これが世の中に出たら絶対人気出る」みたいな気持ちでやってたから、突っぱねることも多かったし。根拠のない自信みたいなものが、悪くいうと頭打ちに繋がったと思うけど。良くいうと、だからこそ生き残れてこれたんだなと思ってて。あそこで媚びていたら、一瞬のセールスには繋がったとしても、地力にならなかっただろうから。こうやって長く続けるには至らなかっただろうなって思いますね。
バンドの個性は試行錯誤の中で生まれた、ちっちゃなこだわりの積み重ね
seek僕らはどっちかというと、言うことを聞きまくってたタイプで。同じ事務所に所属してても、全くスタンスは違ったんですけど。それがゆえに活動休止になって、新しく始めようとなった時に、どうやって戦って良いのか分からなくて。やっぱり善徳さんに相談しましたね。その頃、僕はMix Speaker's,Inc.を結成した時だったんですけど、善徳さんと話すようになったキッカケもそれで。自分で物事をやり始めるとなった時、「どうやって世の中と戦ってきたんやろう?」というところで、善徳さんに話を聞きたかったんです。
杉本当時のバンドって今とやっぱり違って、とにかく他と違うことをやらなきゃダメな感じはあったと思うから。それをみんな探してたし、僕が「Waiveはここが違うんだ」と思ってることもあるんだけど、人から見たら伝わらないこともたくさんあって。特に関西のソフビと呼ばれてたバンドって、ソフビって分類されてしまってる以上、その様式美の中にあって。こういう感じの格好でこういう曲調や構成で、ツインギターでハモリのツインリードがあってとか、とにかく一緒なんですよ。だから僕は、それをどう破壊していこうかな?と考えた時、「ギターソロをやらないギタリストになろう」と思って。ギターソロのセクションがあってもごちゃごちゃやったり、バッキングコード系のギターソロにしてしまおうとか。このジャンルに無いものを入れて他とは違うことをやってるつもりでいたんですけど、そんなちっちゃなこだわりは大半の人には分からないんですよ。ただ、それでもそれを積み重ねていった結果、変なバンドに見えるようになってたという感じだった。
──Waiveの個性は、ちっちゃな抵抗やこだわりを積み重ねていった結果だったんですね。
杉本サイコも外から見るとただのビジュアル系だったかもしれないけど、こういう要素を足していこうとかやっていくと、中に入れば入るほど変なバンドだったことが分かる。MUCCも最初は普通のビジュアル系だと思ってて。「なんで初めて大阪に来て、こんな人気あるんだろう?」と思ってたんだけど。さっき逹瑯が話してた、梅田HEAT BEATのライブでリハを見て「めちゃくちゃいいな!」と思って、ミヤくん(MUCC)に機材のことで話しかけたこととか明確に覚えてて。みんな、ちっちゃなこだわりが積み重なっていって、結実していったんじゃないかな?って、今考えると思いますね。みんな、最初から生き残るためのなにか武器を持っていて、それを貫いていた訳じゃないと思います。
逹瑯その頃なんて、試行錯誤の途中ですからね。
杉本うん、まだ全然出来上がってない頃に出会ってるから。いまその頃に戻ったら、全部ダサすぎてヤバイんちゃうか?って気がしますけど(笑)。
逹瑯ただね、長くやってるからその頃の曲をやってるんですよ、まだ。
杉本そう(笑)。二度と書けないものが、そこに生まれてたっていうのがあるんだよ。
逹瑯「なんだ、このアレンジ!?」みたいなのもいっぱいありますけどね。
──そこを大きく変えてしまったら、みんなに愛された曲では無くなってしまう。
seek絶対そう。よくあるリテイクもので、それを整理して、いまの音楽にしてしまうと、急につまらなくなってしまうという。
杉本年取ったな、そう考えたら(笑)。いまはそうやって全部のことを考えられるようになってるけど、当時は「カッコいいから」って頭から突っぱねてた気がするんですよね。それがいいのか悪いのかは置いといて、そういう強さは失っていってる気はするな。もちろん、代わりのものを得ていってると思うんですけど。
きっと、自分の中にある力のバケツみたいなものの容量や、そこに入れられる量って決まってて。何かと戦っていく時、いま戦う術は持ってるんですけど、同時に若さって能力を使うパワーは失ってる気がしますね。それは特殊能力だと思うんで。
きっと、自分の中にある力のバケツみたいなものの容量や、そこに入れられる量って決まってて。何かと戦っていく時、いま戦う術は持ってるんですけど、同時に若さって能力を使うパワーは失ってる気がしますね。それは特殊能力だと思うんで。
逹瑯好奇心と衝動が減っていくんじゃない?知らないものが分かったものに変わって、経験値になってるから。その分、経験値は増えて、選択肢や戦い方は増えてるけど。若い頃のような好奇心と衝動は減ってるだろうし、知ることで新鮮味もなくなるよね。
──よく、子どもの頃より時間が経つのが早いのは、子供の頃はなにもかもが新鮮だからで。その時起きてる出来事が「知ってる」に変わることによって、時間が経つのが早く感じるっていいますよね。
逹瑯そう。だからね、よく「若いうちにいろいろ経験した方がいいよ」とか、「旅行もいっぱい行った方がいいよ」とかいうけど、年取ってからに取っといてもいいんだよ。初めてやることは、どのタイミングでも感動するから。何も知らない大人になっちゃうかもしれないけど、いま知ったんだからいいんじゃない?と思う。
杉本この間、若者に「これが日本一美味いラーメンです!」って勧められたラーメンが、美味しいけどもそこまでではないやろって感じで(笑)。まだあんまりいろんなものを知らないからこそ、そう思えるのことって素晴らしいなと思って。
逹瑯「日本一、お前の中ではな!」って話だからね(笑)。それ言ったら俺、小学校の時にコンビニで発売したばかりの『ラ王』を食ってたまげて、「これ、ラーメン屋行かなくていいじゃん!」と思って。友達と「すげぇラーメンあるから食いに行こう!」って、わざわざコンビニまで連れてって食べたからね(笑)。







