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第2回 語り手:土橋安騎夫(REBECCA)
レベッカと言えば、「フレンズ」をはじめとして数多くのヒット曲を放ち、またリミックス・アルバムでチャート1位を飾るなど、音源制作の面でも記憶と記録に残る活動を展開したバンドだが、彼らが特別な存在であったのはそうした音源を精力的なライブ活動と並行して発表し続けたからだ。つまり、彼らはレコーディング・スタジオでもライブの現場でも超一流の存在だったわけだ。が、そのバンドのサウンド面の中心を担った土橋安騎夫は、そういうふうに音源制作とライブの両方でがんばるしか当時はやり方がなかったし、それは王道だったと振り返る。その怒涛の日々のなかでの渋公にまつわる記憶、そしてライブの現場でのあれやこれやを語ってもらった。
──まず、土橋さんは東京のご出身なので、デビューする前から渋谷公会堂にライブを見に行ったりしてたんじゃないですか。
新宿厚生年金会館にはよく行った印象があるんです。U2とか、ラーセン・フェイトン・バンドとか。でも、けっこう記憶がグシャグシャになってますからねえ…。ひとつ憶えてるのは、エコー&ザ・バニーメンを見に行きました。なぜ憶えてるかというと、その日はレベッカのリハーサルがあって、それが終わってSHAKEと二人ですっごい勢いで走っていったんですよ。
──調べてみると、1984年1月ですね。
ということは、まだデビューしてない時期だったんですね。
──レベッカでの渋谷公会堂ライブとなると、ドラムが小田原(豊)さん、ギターが古賀(森男)さんという体制になった最初のライブとして、85年3月3日の“ひなまつりコンサート”に出演されています。
そうなんだ…、まったく憶えてませんね(笑)。やったことはなんとなく憶えてますけど、それが渋公だったという認識はまったくないです。渋公と言われてまず思い出すのは、渋公を何日間かやったことがあるでしょ。そのときに、行き帰りが古賀君と一緒だったんです。古賀君がクルマで迎えに来てくれて、それに乗って行ってたんですけど、その帰りの話ですよ。出待ちしてた3人連れくらいの男のグループから「古賀さん、いいクルマ乗ってますね!」みたいなことを言われて、それでもかまわず出て行ったら、eggmanの前あたりで古賀君が「あっ、ギター忘れた。取ってくるね」って、クルマ停めて、取りに行っちゃったんですよ。なんか嫌な感じだなあと思ってたら、さっきの3人組が歩いてきて、やっぱりみつかっちゃって、「あれっ!?何やってたんですか、こんなところで」って言われて、気まずかったという(笑)。
──(笑)。レベッカはビッグになっていくスピードがあまりに急だったから、ファンのほうでもスターに対する憧れの気持ちと親しみの感情の整理がうまくつかない感じがあったんじゃないですか。
だって、85年の渋公のときは『Maybe Tomorrow』のツアーで、渋公の前にやった会場は全部どこも小ホールだったんですよ。会場を押さえるのはだいたい半年くらい前だから、その時点ではそんなに売れるとは思ってなかったということですよね。それなのに、最後だけ渋公だったのは後からネジ込んだのかな?
──当時の担当のディスクガレージ中西さんによると「次は絶対、渋公」と思っていたそうですよ。
そうなんだ。
──それで、年明けに追加公演で中野サンプラザをやって、その次の5月から始まったツアー“ESSENTIAL”で渋公を2デイズやってます。
じゃあ、さっきの古賀君の話はそのときですね。要は、まだその頃は生活は全然変わっていなかったということですよ。だから、「クルマで行くんだったら、一緒に行こう」という話になるわけです。
──85年の渋公の1年前はまだeggmanとかLIVE INNだったんですよね。
そうですよ。レベッカに入る前にも渋谷・屋根裏でやったりとか、いろんなライブハウスでやりましたけど、渋谷公会堂というのは距離は近いのに存在としてはものすごく遠いっていう。
──それこそeggmanは道を挟んで向かいですよね。
坂を上ってきた大勢の人たちがバーッを吸い込まれていくのを道の反対側から見てて、“いつか、あそこでできるのかなあ…”と思ってましたけど、でもそれと同時にその頃の僕のなかでは渋公というとザ・ドリフターズしか浮かばなかったんですよ(笑)。基本的には「8時だョ!全員集合」のイメージですよね。
──レベッカは85年1月にeggmanの動員記録を作り、4月のLIVE INNは「酸欠ライブ」と言われるほど超満員で、6月に青年館、10月に「フレンズ」のリリース、11月『REBECCA IV ~Maybe Tomorrow』と続いていくわけですが、そのあたりの流れもあまり記憶にないですか。
よく憶えてないですねえ。渋公のときは“やった!渋公だ!”と思ったのかな?どう思ったかも憶えてないですね。その前はアルバムのレコーディングしながら、ライブハウス・ツアーをやってましたから。ひとつ憶えてるのは、その年の8月に「もう、こういうライブハウス・ツアーも最後だね」という話になって、どこかでキャンプやったのは印象に残ってますね。
──9月にアルバムを完パケた日が土橋さんの誕生日だったそうですね。
そう…みたいなんですけど(笑)、本人は全然憶えてないんですよ。だって、最初は「6曲入り1500円でお買い得」というのが売りで始まって、僕らに対しては「曲数が少ないから、年に2枚くらいのペースでがんばってください」という話だったんだけど、3枚目(『WILD&HONEY』)が売れたら、同じ半年に1枚のペースなんだけど、でもサイズはフルアルバムという話になってて、こっちにしたら“えっ!?”という感じですよね(笑)。しかも、その制作の間もライブハウスでライブやってたっていう。
──では、映像を見て思い出したことがたくさんあったんじゃないですか。
そうですよ。去年の暮れに完全版がDVDで送られてきて、それを見直すまで、最後に「瞳を閉じて」をやったなんてことは完全に忘れてました。でも正直に言って、ホールでやってるときに見えてることってどこでもいっしょですからね。横須賀の野外でやった時のことはすごく憶えてるんですけど。
──そういう物事が進んでいくペースが落ち着いてきて、土橋さんたちも地に足が着いた感じになってきたのはいつ頃からですか。
ESSENTIALのツアーが終わったあたりじゃないですか。
──渋谷公会堂というホールは、ステージ上で演奏する際の感覚という部分での印象はどうですか。
渋公ならではということは特に…。そういう意味で印象的なのは武道館ですよね。あの客席が迫ってくる感じは独特だと思いますけど、渋公は…、それにサンプラザもそうですけど、まずそこでやれるということがステイタスですから。やりやすい/やりにくいという問題じゃないんですよ。
──では、渋谷公会堂に限らず、ステージ上での演奏環境みたいなことを振り返ったときに、土橋さんが使っていたシンセを始めとするいろいろな機材は当時スタッフもまだあまり慣れていない先端的なものが多かったでしょうから、そこから生じる苦労みたいなことも少なくなかったんじゃないですか。
それは確かにありましたけど、でも当時は「それしかなかった」ということですからね。そもそも当時はイヤモニというものがなかったですから。91年に解散を発表して、その後あまりライブをやりたくなくなったのは、音のことが大きいですね。見てるほうはライブならではの気持ち良さがあったかもしれないですけど、やってるほうは“ちょっと嫌だな”という気持ちがあったんですよね。それは、ライブはそういうものと言えばそうなんですけど、でもその感覚はアマチュアのときからずっとありました。
──機材のセッティングもスタジオでやるときのようにはいかないですよね。
まあ、そうですね。
──レベッカがデビューする、ほんの3、4年前には、YMOのライブでシンセが暴走して、マニュピレーターの松武(秀樹)さんは大変だったという話が伝えられていますが、土橋さんがレベッカでやっていた頃にはもう機材もだいぶ進化していたんでしょうか。
そうですね。ホールでやるときは大丈夫だったですけど、そういう意味で記憶に残ってるのは86年に早稲田の学祭でやったときですね。
──雨が降ってたんですよね。
そうです。それでキーボードが全部ダメになって…。そもそも電圧が低くて、ライブがやれるような環境じゃなかったんですよ。でも、そのライブから何曲かラジオでオンエアされることになってて、だから後でダビングしなきゃいけなかったんですけど、僕のキーボードは全部濡れてダメになっちゃってたから、蓑輪(単志)さんがキーボードを貸してくれたんです。ちなみに、そのときのライブの映像がありますけど、それを細かく見ていくと、僕の横でローディが“どうしよう…”という表情で僕をじいっと見てるカットがあったりするんですよね(笑)。
──(笑)。その早稲田の学祭での演奏は「TIME」のツアーの最中だったんですが、そのツアーのスタートは渋公での5デイズでした。
そうなんだ。やっぱり、全然憶えてないなあ(笑)。