──その次に、武道館4days公演を含む体育館ツアーをやって、その年の12月からまたツアーが始まります。
「POISON」のツアーですよね。あのツアーはよく憶えてますよ。長かったから。最後が代々木第一体育館ですよね。その打ち合わせのときに「ステージセットの階段が開いて出てきたら、すごくない?」と言ったんです。僕は冗談だったんですけど、本当にやることになったんです(笑)。
──それも、映像に残ってますね。
ただ、あれは人が押してるんですよね。階段の扉が開くのはすごい予算をかけて油圧でやってるんですけど、僕のと、小田原君の台とオバヲさんの台と、それぞれ3人ずつ9人で押してるんです。それで3日公演があって、1日目、2日目は何事もなかったんですけど、3日目ですよ。3人並んで出ていくはずが、ふと横を見るとオバヲさんが見えないんです。オバヲさんの台がレールから外れてたんですね。それでも、押してる人間はがんばって押すじゃないですか。その一方で、空いた扉が閉まっていくわけですよ。それで、舞台監督が「どけっ!どけっ!」と叫ぶんだけど、押してる人間がそれに気づかずになんとか押し出して、ギリギリのところでセーフだったっていう。やっぱり、ああいうことが起きるんですよね。
──その代々木の公演に限らず、客席から見てる限りでは、もちろんそんなことには気づかずにただ楽しんでたわけですが、ステージ上では機材のことも含め、いろんなことが起こってたんですね。
そうですね。僕も全部憶えてるわけじゃないですけど、いろいろあったと思いますよ。そういうふうに考えていくと、逆にMaybe Tomorrowのツアーくらいまでは平和でしたよね。手作り感満載だったし。だから、忙しかったし、大変だったけど、でも嫌な思い出というか、そういうものはないんですよ。
──レベッカがデビューした80年代前半のロック・シーンは平和というかまだ牧歌的なところもあったと思いますが、それがシーンとしてメジャー化していくプロセスにおいて、レベッカはまさにそのトップランナーだったと思うんです。そういうバンドの中にあって、土橋さんはじめメンバーのみなさんは“シーンを変えていくんだ!”とか“もっとメジャーにするんだ!”というような意識はあったんでしょうか。
どうだろう…。とりあえず、レコーディングして、ツアーに出て、という毎日が本当に日常化していて、そのなかでヒットが出ればライブの会場が大きくなっていくことも理解してましたけど、でも僕自身はとにかくいい音源を作っていいライブをやってということしか頭になかったと思いますよ。
──では、さらに時代が進んで、レベッカが解散し、その怒涛のような日々から抜け出した状況のなかでシーンを見渡した時に、渋谷公会堂という場所についてはどんなふうに思いましたか。
やっぱり登竜門というか…、ライブハウスをやって、青年館があって、それで渋公っていう。そういう道筋がありましたよね。
──ライブの部分で、そういうふうに階段を上っていくような状況があることはバンドが成長していく上で意味があるように思われますか。
その段階を踏んでいくことがステイタスでしたからね。今は違うじゃないですか。今は、いろんな音楽が溢れていて、それぞれにみんな自分の好きなものに集中するから、そのなかで僕らは全然知らないような人が東京ドームをいっぱいにしちゃったりするでしょ。でも僕らのときはインターネットもないから、みんなライブの現場で起こってることだけを見てて、そこで認めてもらうしかないから、それをやらざるを得ないというか、それが王道だったと思いますよ。
──最後に、予定では来年、新しい渋谷公会堂ができることになってるんですが、どんなホールになることを期待しますか。
ウ~ン…、どうだろう。さっきも言いましたけど、僕は渋公というとザ・ドリフターズのイメージだから(笑)。それに、今の時代が昔の渋谷公会堂みたいなホールを求めているのかどうかもちょっとピンとこないし。でも、場所はいいですからね。だから、バンドが成長していくための段階を踏むひとつのステップになればいいなということは思いますね。
「渋谷公会堂物語」次回の公開まで楽しみにお待ちください!