提供:渋谷区
第1回 語り手:岸谷 香
1980年代のバンド・ドリームを体現した代表的な存在のひとつが、プリンセス プリンセスだった。その足取りは、まさに3段飛ばしで階段を駆け上がるような勢いで、だから記録を見る限りでは、プリンセス プリンセスにとっての渋谷公会堂はまさに通過点に過ぎないように見える。
しかし、実際にはまったく違ったようだ。「もうゴールしたような感じでした」と、初渋公の思い出を岸谷 香は振り返る。連載の第1回は、バンドで渋公を目指し、バンドでその夢を果たした人だからこそ語れる渋公の魅力を、彼女にたっぷりと語ってもらおう。
しかし、実際にはまったく違ったようだ。「もうゴールしたような感じでした」と、初渋公の思い出を岸谷 香は振り返る。連載の第1回は、バンドで渋公を目指し、バンドでその夢を果たした人だからこそ語れる渋公の魅力を、彼女にたっぷりと語ってもらおう。
──まず、あらためて確認してすごいなと思ったんですが、86年5月にソニーからデビューミニアルバム『Kissで犯罪』(キッスでクライム)をリリースして、もうその2年後には渋谷公会堂公演を実現してるんですね。
岸谷 音楽のスタイルも、プロデューサーの笹路(正徳)さんやマイケル(河合)さんといったスタッフが定まったのが87年の『TELEPORTATION』で、渋公はその次の『HERE WE ARE』のツアーの時ですね。
──だから、当時ソニーからリリースするまでの紆余曲折を知らない音楽ファンからすると、あっという間のブレイク、という感じでプリンセス プリンセスの躍進を見ていたんじゃないかと思うんです。
岸谷 そうかもしれないですね。
当時は「ロック・バンドと言ったら渋谷公会堂」というふうになってました
──そういうなかで、メンバーのみなさんは初めての渋谷公会堂公演(1988年4月17日開催)が決まったときはどんな感じだったんですか。
岸谷 そりゃ、もう、みんなでちょっと酔っ払って泣いたりしましたよ(笑)。なんかまるで、もうゴールしたような感じでした。わたしたちは、渋谷だったらegg-manとかTAKE OFF 7、それに新宿だったらルイードとかで対バンをやることから始めてたから、渋公なんてそれはそれは程遠い、と思ってましたから。それで、「次のツアー、東京は渋公でやるよ」とディスクガレージの担当の方から言われてすごい喜んで、当時は電話しか予約システムがなかったんですよね。「○月×日△時 電話予約開始」みたいな感じで告知されるんですけど、その渋公の電話予約開始の翌日くらいにわたしたちはちょうど事務所でリハーサルをやってたんです。そしたら、カタカタカタカタってディスクガレージさんから「プリンセス プリンセス初の渋公ソールドアウト!」というFAXが届いたんですよ。そのFAXのところになぜかわからないけど、わたしと京ちゃん(富田京子)がいたんでしょうよね。そのFAXを持って、二人で「イエーッ!」ってポーズとってる写真が残ってるくらい、記念すべきことでしたね。
──「それはそれは程遠い」と言われましたけど、渋公は言ってみれば見上げるような存在だったわけですよね。
岸谷 その通りです。
──どうしてそういうふうに感じていたんでしょうね。
岸谷 どうしてなんでしょうね?とにかく「ロック・バンドと言ったら渋谷公会堂」というふうになってましたよね。わたしたちがデビューした頃はまだ東京ドームはなかったし、武道館はもっと次元が違う人しかやらない、みたいなイメージだったんですよね。
──ほとんどは洋楽のアーティストでしたよね。
岸谷 そうそう。だから、スーパースターは別だけど、バンドが成功するというか、下世話に言えば売れるということの頂点は渋公でしたよね。もちろん、中野サンプラザや新宿厚生年金会館もあったんですけど、イメージとしてバンドはそこじゃないという感じがありました。
──渋谷公会堂のイメージ、という話で言えば、「8時だョ!全員集合」や日本テレビの歌謡曲番組の公開放送の会場にもずっと使われていて、地方でテレビを見ていた人にとっては渋谷公会堂と言えばそういう番組のイメージも強いんですが、香さんはデビュー前には渋公に関して何か思い出はありますか。
岸谷 「8時だョ!全員集合」や日本テレビの歌謡曲番組のことは、いま言われて確かにそういうこともあったなあと思うんですけど、学生時代のわたしは邦楽のバンドはあまり聴いていなくて、子供ばんどとゴダイゴ、それにRCサクセションくらいしか通ってないんですよね。そのRCも子供ばんどもイメージのなかではやっぱり渋公なんですよ。なんでだろう?で、ウチは親が厳しくて、中学のときはまだ外に出してもらえなくて、高校になってコンサートにも行けるようになって、それで初めて行ったのがRCの武道館だったんですね。だから、もしRCを渋公で見れてたら、そりゃ絶対渋公に行ってたと思うんですけど…。それに、またイメージの話になりますが、青年館をやって渋公、みたいなイメージがあったじゃないですか。でも、わたしたちも青年館はやってないのに、どうしてああいうイメージがあったんでしょうね。
──それは、プリンセス プリセンスが3段飛ばしくらいのスピード感でブレイクして言ったからですよ(笑)。多くのバンドは、egg-manやTAKE OFF 7を売り切って、その次に青年館、そして渋公という階段を上ってましたよ。
岸谷 そうか。わたしたちはスキップしちゃったんだ。でも、その前が長かったからね(笑)。egg-manやルイードでワンマンもろくすっぽできなかったですから。だから、ワンマンができるようになってからは、確かに速かったかもしれないですね。