インタビュー/兼田達矢
──音楽を仕事にするという気持ちは幼い頃からはっきりしていたんですか。
歌手になるというのは、5歳の頃には決めてました。松田聖子さんがテレビで歌っているのを見て、“わたしもこの人みたいになりたい!”って。小学校1年の文集にはもう「歌手になる!」と書いてましたね。
──自分で曲を作るようになったのはいつ頃ですか。
高校に入った頃に、宇多田ヒカルさんやaikoさんのような、自分で作って歌うという人たちがバーンと出てきたときに、自分も日記みたいに毎日いろんなことを綴ってるものに曲をつけて歌ってみたいなと思ったんです。
──自分で作った曲を歌うのは、人が作った曲を歌うのとはやはり違いましたか。
違いました。自分で書いた歌詞は最初から最後まで自分が作ったストーリーですから、人が書いたものよりも感情移入がしやすいということが当時はありました。だから、自分で作り始めてから20代前半くらいまでは、“自分が書いたものでないと嫌だ!”と思ってたんです。
──20代の半ば以降はまた考え方が変わってきたんですか。
自分のなかではいちばん最初に思った“歌手になりたい!”という気持ちが強くて、それは自分が曲を作るということよりも強いというか大きいですね。だから最近は、“自分が書いたものでないと”ということにはこだわらなくなっています。
──それは、人が書いた曲に対しても、自分が書いたものと同じくらい実感的に感じられるようになってきたということですか。
曲を書き始めた高校生の頃から今の年齢になるまでの間にはもちろんいろんなことがあって、そうすると20代の頃は“わたしが、わたしが”とか“自分が一番!”みたいな感じだったのが(笑)、そうじゃないところに視点をおいていろんなことを見られるようになってくるんですよね。そうすると、人が書いた曲に対して“こういう表現の仕方があったんだな”と素直に思えるようになったし、その上で“じゃあ、わたしはこの曲をどういうふう歌えるだろう”ということを考えるようになって、だから、シンガーソングライター的な意識から、またわたしの原点であるシンガー的なところに気持ちが戻ったということだ思います。
──中嶋さんは、シンガーとしての自分の個性ということについては、どんなふうに思っていますか。
自分が書いたものであろうと人が書いたものであろうと、日本語を大切にしたいなという気持ちがあるんですね。歌詞カードを見なくてもちゃんと言葉が伝わるというのは自分のなかでもはっきり意識していることだし、そこのところをいいなと言ってくださるお客さんの声も聞きますから、そこは自分の気持ちと聴いてくださる方の気持ちが一致しているところかなと思います。
──8月にリリースした2ndアルバム『空色のゆめ』に収められた「キラキラ」という曲には、♪シャッターを切るように日々を描きたいの♪というフレーズがありますが、その意識はずっとあるものですか。
“もう秋なんだね”とか “もう年末になっちゃった”と感じることがあると思うんですけど、そういうときって忙しさに流されていってしまってるということなのかなと思うことがあって。でも前の時間に戻ることは絶対できないですから、その瞬間その瞬間を写真に残すように、自分の心の中に刻んでいきたいと感じる気持ちが多分そういう歌詞になったんだと思います。
──時間というものはどうしても流れていってしまう、ということが、中嶋さんのなかではすごく気になることであるようですね。
ものすごく気になります。18歳のときからコーラスの仕事を始めて、“あっ、もう25だ”、“26になっちゃった。わたしはこれからどうなっていくの?”みたいに、どちらかというと遠い未来への不安というものを日々感じながら過ごしてきたので、そうなると時間の流れということにどうしても気持ちが向きますよね。それが歌詞にもなってるんでしょうね。
──そういう性格だとすると、子供の頃からずっと抱いていた夢が、時の流れのなかで揺らいだり形が変わってしまったりするように感じることはなかったですか。
毎日でした。コーラスや歌詞提供の仕事をさせていただきながら自分のライブ活動も続けて、という生活をしながら、それでもCDデビューというところには届かないという時期が10年くらいありましたから。特に気持ちが揺らいだのは30歳前後の時期で、音楽をやってる自分じゃなくて、一人の人間としての自分のこれからの人生をどういうふうに生きていきたいんだろう?ということを、その時期にものすごく考えました。その時期はちょうど前の事務所を離れてフリーになった時期だったんですけど、そのタイミングでそれまでの関係を全部切ったんです。そのとき付き合っていた男性もすべて(笑)。
──文字通りのリセットですね。
そういうふうに新たなスタートを切ったら、仕事がものすごく増えたんです。それは良かったんですけど、でもそうなると自分がメインで歌う仕事の比重が減っていって、そして30のときに“自分はコーラスとか仮歌の仕事をやる人なんだな”というふうに、自分のなかで結論を出したんです。それは、最初の夢からは形が変わってますよね。ところが、そのタイミングで浜田(省吾)さんに出会ったんです。そして、こうしてCDデビューすることになったという、相当な紆余曲折ですよね(笑)。
──コーラスや仮歌の仕事が自分のやることだと思い定めた後で、「自分のCDを出してみたら?」と言われたときはどんなふうに思いましたか。
やっぱり、すぐに「やります」とは言えなかったですね。でも、浜田さんは、「自分がプロデュースするとしたら、コーラスや仮歌の仕事をやめる必要はなくて、むしろ将来的にはメインでも歌うし、コーラスも仮歌もやるし、ピアノも弾けてギターも弾けて、というふうにマルチな活動をやれるようになるというのが、イメージしている中嶋さんの未来像だから、まずは挑戦してみたら」と言ってくださったんです。それで、やらさせていただいたのが、去年出した『N.Y.』というアルバムです。
──そのアルバムに「Starting Over」という曲がありますよね。
まさに、あの曲がその葛藤を抱えた30の頃に書いた曲です。
──そこに、♪ただ諦めない それだけでは何も変わらないと気づいたんだ♪という歌詞がありますが、中嶋さん自身はどうすれば変わると気づいたんですか。
“わたしは絶対諦めない”とずっと思いながら20代を過ごしてきたんですけど、“じゃあ、そのことに対して自分はどれくらいやれてたのか?”と振り返ってみると、そんなに死に物狂いでやってこなかったかもしれないと思ったんです。例えば、「1ヶ月で100曲を作って、それでいい曲を書けなかったら諦める」みたいに、ちゃんと踏ん切りをつけることをやろうとしないで、ただ諦めないと思い続けているだけの20代だったなということに気づいたんです。それはやっぱり浜田さんと出会って、浜田さんのストイックな姿、音楽に対してものすごく熱心な姿を見ていて、自分の甘さを痛感したんですよね。