T.C.R.横浜銀蝿R.S.がリーダー・嵐ヨシユキの魂と共に巡る『嵐追悼 関東集会 All for RAN』を開催!翔&Johnnyが思い出を語るロングインタビュー!

インタビュー | 2022.09.26 17:00

──前回、DI:GAで取材させていただいたのが、横浜銀蝿40thのスタート前になる、2019年12月。そこから、いざツアーというところで、新型コロナのパンデミックがあって。
翔(Vo)そう。あの頃、プロモーションでJohnnyと一緒に全国回ってたんですよ。それで戻って来て、「よし、ツアーやろうか!」って時に、コロナの流行がドーンと来て。結局、「行くからね」って約束していたところを全部回れなくてね。

──最初は2020年の1年限りで動き出した横浜銀蝿40thでしたが、1年延期して2年間活動して、2021年末で完結。「3人で再び動き出そう」とスタートを切ったところで、嵐さんの体調が悪くなってしまって……。
横浜銀蝿40thを大晦日の配信ライブまできっちりやり切って、解散して。今年の1月から、THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL(略称:T.C.R.横浜銀蝿R.S.)という、デビューしたときの正式名称に戻して。Johnnyはまた会社員に戻って横浜銀蝿を裏で支えながら、メンバー3人でやっていこうという話になっていて。まずは4月に嵐さんのバースデーライブがあったんで、それを横浜でやったんですが。その後、嵐さんの体調が悪くなってしまって。12月31日の最後の配信ライブまでは、本当に泣き言も言わずにやりきったんですけどね。それが終わったら、ガクンと来ちゃったみたいで。
──横浜銀蝿40thをやり切って、安心したところもあるんでしょうね。
そこで嵐さんも体調が良くなかったんで、「だったら、すぐにレコーディングに入ろう」という話になって。夏場に新しいレコードを作って、嵐さんはそこから半年ぐらいリハビリやって。秋口に元気になってくれれば、11月からコンサートも出来るよねって流れで話を進めて。4月15日の嵐さんのバースデーライブには嵐さんも出たんです。「1曲でいいから、全部フォローするからやろう」って言ってたら、嵐さんがレギュラーでなってる川崎のラジオでファンのみんなに「俺、今回3曲歌うからよろしく!」みたいなこと言ってて(笑)。「なんでそんなこと言うの?」なんて言いながら、なんとかバースデーライブを終わらせて。「ここからはちょっと休憩に入ってもらおう。取材だなんだは、俺とTAKUでやるから。嵐さんには療養してもらって、アルバム出来てからの11月のコンサートに専念しようよ」と言ったのが、4月の終わりで。
──そしたらその後、嵐さんが体調を崩されて。
6月頭くらいに、ちょっと体調が悪くなって。最後は肺炎だったんですけど、その前に心臓の手術をしないとまずいってことになって。わりとデカい手術だったんですが、「行ってくるぜ!」なんて言って、普通にこなして成功して。「もうすぐ退院だね」とか言ってる時に、肺を悪くしてしまって。それから1ヶ月も経たず、7月4日に亡くなってしまったんです。脳梗塞の時もリハビリやってドラム叩けるまでになったし、俺らにしてみれば、どんな時も復活する人だったんで。俺にとったら実の兄貴なんで、すごい強さがあるのも知ってるから。誰もがカムバックしてくると思ってたんだけどね。
──「嵐さんなら大丈夫!」と、誰もが信じて疑わなかった?
そう。だから今思うとね12月31日まで頑張って、40thをやり終えて、元々の横浜銀蝿に戻って、自分のバースデーをやりきって。本当に生涯現役を貫き通したんだなと思って、ある意味、嵐さんらしいけど。正直な話を言うと、まだ67歳ですから。まだまだ、一緒にステージに立ちたかったなと思うし。今もまだ、気持ちが抜けきれてないし。やっぱ、嵐さんがいないと寂しいですよね。
Johnny(Gt)僕は横浜銀蝿40thをやるまで、嵐さんと20年近く会ってなくて。最初、嵐さんが体調良くないんで、ステージでは2曲ぐらい歌って、あとは物販とかやるって話だったんですよ。それが横浜銀蝿40thが始まってみたら、最初から最後までステージに上がっててビックリしました。2019年3月に久しぶりにみんなとセッションやって、そこで横浜銀蝿40thをやる流れになったんですけど。その時に嵐さんがインフルエンザにかかって。それが原因で人工透析が始まったんです。それで「40th始まっても、ツアーとか地方はいけないね」みたい話をしてたんですけれど。「腹膜透析という自宅で透析が出来るってやり方がある」って話になって。そのおかげで地方も行けたし、2年間やりきることが出来たんです。ただ、腹膜透析っていうのは2年が限度らしくて。去年の12月に横浜銀蝿40thをやりきった後、1月に手術をやって。そこからまた普通の透析になったんですけど、それも体が慣れるまで半年ぐらいかかるんです。
──うわ……大変ですね。
Johnnyなので少しお休みして、この秋のツアーから復活という話だったんです。それでも地方とかは行けないじゃないですか? だから今考えると、横浜銀蝿40thの2年間というのは、神様が「お前ら、もう1回やれよ」って、4人に与えてくれた貴重な時間だったんじゃないかと思って。その2年が早くても遅くても出来なかったわけですから、すごく運命的ですよね。横浜銀蝿って、デビューしたときもそうだったんです。1980年9月、ツッパリスタイルでデビューするんですけど、その頃って校内暴力とか暴走族が全盛期で、そういう社会現象が残ってる世の中で、俺達みたいな風貌したのが出てきて、若者の代表だみたいな感じで一気にブレイクしたんだけど。それが2年早くても遅くても、大きくブレイクしなかったと思うんです。だからまた神様がそんなタイミングを与えてくれて、嵐さんと一緒にできたことが、すごく良かったし。この2年間があったから、俺達4人の横浜銀蝿を完結出来たと思ってます。
嵐さんもこの2年間があったから、きっと悔いはないと思うよ。俺とJohnnyは高校からの同級生だけど、嵐さんは実の兄貴だから64年間一緒にいて。Johnnyはマブダチの兄貴ってところで、昔から嵐さんと遊んでた仲みたいなのもあって、その縁が40年間続いて。Johnnyが帰って来てくれて、嵐さんもすごい嬉しかったと思うし。コロナがあって、コンサートは全部中止になってとか色々あったけど、それはどうしようもないことだから。「それも受け入れて、楽しむしかないよね」って言って、1年延ばして2年間やってきた時間も本当に貴重だったと思うし。正直、嵐さんが突然いなくなって、愕然としたけどね。まだ四十九日も終わらせてないけど、お別れの会や新譜のリリースやツアーの話も進めて。「あとはやるしかない」ってところまで来てるにも関わらず、やっぱり寂しくなるんだよね……。
──忙しく動きながらも、やはり喪失感がありますか。
いつもそうですよ。嵐さんの追悼ライブのリハに行っても、「あれ? 人が足りないな」と思うと、「そうだ、嵐さんがいないんだ」って。ドラム叩かなくても、スティック持ってスタジオ来て、椅子叩いたり文句言ったりしてた姿が当たり前すぎちゃって。俺の中でまだ受け入れられてないんだろうね。嵐さんのためのアルバムがリリースされて、その曲を歌うツアーを回ったら、少しは前に進めるのかな?と思うんだけどね……。俺、もっと強いと思ってたけど、そうでもないなって。やっぱり普通の兄弟じゃない部分があるしね。「バンドで日本一になろうぜ!」みたいな夢を語ってたのが叶って、一緒にてっぺんの景色を見させてもらって。なおかつ、またJohnnyとも一緒に出来たりして、横浜銀蝿ってすごく幸せだったと思うんだよね。でもだからこそ、当たり前のように、まだまだこれが続くと思ってたし、こんなんで終わるわけないと思ってたし。これだけ好きなことやっても「また違った形で一緒にステージをやりたかったな」と思うのは贅沢だしわがままだって分かってるし。嵐さんにしてみれば、「生涯現役でやりきったし、これくらいでいいべ」と思うかも知れないけど。残った俺達はやっぱり「いやいやちょっと待ってて! もう1回くらいやりたかったよ」って思っちゃうよね。

逢いたくて 逢いたい(short ver.) / 横浜銀蝿40th

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