インタビュー/兵庫慎司
インタビュー撮影/東 美樹
協力/沖縄居酒屋ゆいゆい
沖縄の石垣島と西表島の出身だが、結成は東京。
レゲエ・スカ・ラテン・ソウルなどをポップにミックスした、南国情緒あふれる音作りだが、沖縄音階や琉球民謡の要素は入っていない。
『トレモノからの挑戦状』と題し、SO MANY TEARS、bonobos、SCOOBIE DO、韻シストを迎えて対バンライブを行ってきた。 2013年にタワーレコードのオーディションでグランプリ獲得、タワーのレーベルからのミニ・アルバム2枚、そして自主レーベルからEP2枚を経て、2017年7月5日リリースのファースト・フル・アルバム『island island』でメジャーデビュー。
以上、11月17日に代官山UNITで、サポートでASA-CHANGが加わった特別編成で、ワンマンライブ「『island island tour 2017』FINAL ONEMAN」を行うトレモノのプロフィールです。
鳴っていることがそのまま聴き手をハッピーにするような、彼らの音楽がどのように生まれたのか、このバンドがどのように始まってどのように現在に至っているのか、メンバー4人に話してもらいました。
インタビューの場所は、ギター難波良が経営する「沖縄居酒屋ゆいゆい」です。せっかくなので、メンバーひとり一品ずつおすすめメニューも教えていただきました。
「ゆいゆい」とは「縁」という意味で、この店に来たミュージシャンを難波が捕まえて対バンを申し込んだりしてきたそうです(ASA-CHANGもそのひとり)。
なお、お店の営業中にインタビューと撮影を行ったので、難波さん、お客が混んでいたインタビュー前半はほぼ参加していません。
① トレモノ、そもそもの成り立ち
──最初はどんなふうに始まったバンドなんですか?
木田龍良(Vo&Gt) 僕とギターの難波が、東京で一緒にバンドをやっていて。その時は僕はドラムだったんですよ。でも、難ちゃんが、このお店とバンドの両立がうまくいかなくて、お店をしっかりやりたいからということで、解散することになって。
その解散ライブで、「いつもうしろにいるから歌っちゃいなよ」って、歌を歌う機会をいただいて。弾き語りでちょっとやってみたところ、反響がすごくよくてですね。
そこからひとりで弾き語りをやっていたら、半年くらいして、難ちゃんがそれをかぎつけて観に来て。店に集中しようと思ってやめたけど、音楽をやっていないと店の方にも身が入らない、ということがわかって。ガムテープでぐるぐる巻きにして押し入れにしまってあったギターを出してきて、「じゃあやろうか」というところから始まってる感じですね。
それで、狩俣が神戸の音響の専門学校を卒業して、東京に出て来てたんですよ。ライブハウスのPAで。
狩俣匠吾(Dr) でも、やっぱり表に立ちたいという思いが強くて、1ヵ月もしないうちにやめてしまって。そこからバイトをしながらバンドを掛け持ちしてやってたんですけど。
木田 最初はサポート・メンバーみたいな感じで入ってもらって。正規メンバーになって、っていう話も、特にしてないんですけど(笑)。
──トレモノ以前のそれぞれの関係は?
木田 難ちゃんが僕の高校の先輩で。地元でギターでブイブイいわしてる先輩で。彼は僕のことを知らなかったんですけど、一緒にやりたいから僕の方から入り込んだ感じでした、東京で。「やらせてくれ!」と。やったこともないドラムで(笑)。 狩俣くんは、中学校の同級生です。俺がメールしたんだよね。神戸から東京に来てるのは知っていて。
仲間全慶(Ba) 僕は、ボーカルが高校の2個上の先輩で。僕はボーカルの弟とバンドを組んでいて、弟もドラマーだったんですけど、その練習場所がドラムの家だったんです。
木田 僕の家ですね(笑)。
仲間 僕は専門学校に行くために上京して来て、バンドのメンバーもみんな東京に出たから一緒に続けていて。僕が卒業する頃にそのバンドもうまくいかなくなって解散、って流れになった時に、誘われたというか。
② ドラム狩俣の脱退と復帰
──2013年にタワーレコードのオーディションでグランプリを獲って、タワーのレーベルからCDが出るんですよね。
木田 そうですね。4年前ですね。
──そして最新作『island island』で、2017年7月にメジャー・デビューされたわけですけど、その間の時期は?
木田 2014年にも1枚出してるんですよね。2013年、2014年は、タワーレコードのレーベルにお世話になりながら、ツアーとかいろいろ回らせてもらって。
で、2015年はあちこちのフェスに呼んでもらったりして、いろんな先輩のアーティストともつながりが増えてきて。でも、2015年の11月に、狩俣が脱退するっていう。
狩俣 そうですね。
木田 それは何が理由なんですか?
狩俣 石垣に帰ろうと。まあ、親の仕事を、僕はすごい好きで──。
木田 何やってるんでしたっけ?
──すみませんね、僕の代わりに訊いてもらって(笑)。
狩俣 アルミの施工・取付。現場仕事ですね。子供の頃からそれを見ていて、僕はもう、かっこよくてしかたなかったんですね。いつか自分もやろうと思っていて……ほかにもいろいろ気持ちの整理をつけたい時期で、このタイミングかなあと思って。「ごめん俺、石垣に帰る」って、バンドをやめたんですね。
でも、そこから……東京でサラリーマンしながらバンドをやってたんですけど、バンドはやめたけど、その仕事の方が大変になったりとか。
あと、親父の存在が大きいですね。親父は甲子園を目指していて、でも家庭の都合で高校を中退して働かないといけなかった人で。親父からしたら、自分で働いておカネを稼ぎながら夢を目指せるんだったらやるべきだ、っていう考えがあるんですよ。
木田 要は、2015年の11月から2016年の年末までの1年間は、東京で悩みに悩み続けていたっていうことです。バンドはやめて、仕事しながら。僕ら、相当追い込まれましたね、これバンド続けられないんじゃないかっていうくらい。
友達に沖縄出身のドラマーがいて、1年間だけサポートしてもらえないかって頼んで。で、彼が狩俣を「トレモノに戻りなよ」って説得してくれたりもして(笑)。
それで僕も、2016年の年末にメールして。「来年も東京にいるの?」って訊いたら、いる感じだったんですよ。「だったらやろうよ! ほんとは音楽やりたくて東京に残ってるんでしょ?」っていう話をしたら「やりたいです(泣)」って。
仲間 『スラムダンク』みたいな(笑)。
木田 その頃メジャー・デビューの話があって、このチャンスはつかまなきゃいけない、でもドラムいない、サポートも来年やってくれなかったらどうする?っていう時に、「結局ダラダラしてる奴いんじゃん!」っていうところで(笑)。