山中さわお(vo,g)、上田ケンジ(b)、佐藤シンイチロウ(ds)、真鍋吉明(g)。1989年9月16日に産声を上げたバンド、the pillows。結成の経緯は、北海道でザ・コインロッカーベイビーズというバンドで活動していた山中が、すでにKENZI & THE TRIPSのメンバーとして全国で人気を博していた上田に『新バンドを結成しよう』と誘われたことがきっかけ。同じくKENZI & THE TRIPSの佐藤が加入、さらに北海道で高い動員力を誇っていたバンド、ペルシャのギタリスト、真鍋が加入した。CDをリリースする前から全国ツアーを敢行するという上々のスタートを切ったthe pillowsだが…。
【第1回】
1989年~:「結成して初めてのライブ・ツアー」
1991年~:「メジャー・デビュー後、初ツアー」
「初めてのツアーは、本当に“希望と絶望”(笑)。“飴と鞭”が酷かった…、いや、“飴”なんか無いか」
──the pillowsを結成して初めてのツアーを今のさわおさんから振り返ってみると、どんな印象でしたか。
山中さわお(vo,g)なんだろう、本当に希望と絶望(笑)。“飴と鞭”がヒドいなっていう…。いや、“飴”なんか無いか。まだ20歳の若者で、北海道でロック・バンドをやっていて、もちろん全国的に活動したい、好きなことをやって、いわゆるプロ・ミュージシャンになっていいスタジオでレコーディングして、そしてそのCDを聴いて好きになった人が全国で待っている街に行くっていう。『そんなことが現実的になったんだ』みたいな、若者である自分の未来に対する希望に満ち溢れていたんですね。今だったら、車で全国ツアーやるなんて行きたくねえけど(笑)、そのときは音楽を聴きながら高速道路に長い時間乗ってるあの窓からの景色、それすらも全部最高な訳ですよ。まだ当時the pillowsね、車のオーディオがカセットで、上ケンさん(上田ケンジ)が録音してきたストーン・ローゼズとかスミスとかキュアーとかライドとか、あの辺のオリジナル・カセットテープを車で流しながらツアーをやっていた。今はもうそれぞれiPodなんかで聴くようになっちゃってるけどね。
──ライブ自体はどんな感じでしたか。
山中さわおライブはうまくできなかったかな。the pillowsは初代ベーシスト、リーダーの上田ケンジとドラムの佐藤シンイチロウ。このふたりがやっていたパンク・バンド(KENZI & THE TRIPS)が有名で。それが解散して、そこに僕とギターの真鍋(吉明)が入ったかのように思われて。パンク・バンドが解散してそのリズム隊が作るバンドに無名の北海道から来たミュージシャンがふたり入ったようにみえるんですね。本当はそうではない。ほんとは解散してかねてから交流のあった上田ケンジが僕を『新しいバンドを作ろう』って誘った。そのあとに佐藤シンイチロウに『こんなのやるけどやる?』って言ったら『やる』って。トリオでやろうとしたけど、トリオでやるには自分のギターの技量が拙かったのでギタリストを入れて4人になろうと言って真鍋君が入った新しいバンドなんです。
9月に結成して12月には新宿ロフトが売り切れているっていう七光りバンドだから異常事態じゃないですか(笑)。CDも出してない、1曲も知らないんだよ、みんな。オレの顏も知らないし。そのまま全国ツアーをやって、最初の大阪とか名古屋は結構入ったんじゃないかな。でも“リズム隊がやってたパンク・バンドと違う”ということでガッカリされる訳ですよね。まずマネージャーが付いて、全国ツアーをブッキングしてくれて、ツアーをやるっていうことだけで興奮しているファンが待っている、だけどthe pillowsファンではない…っていう状況。入り待ち、出待ちもリズム隊のファンだけで、僕らは素通りして、ボーカルとギターのふたりはリズム隊がサインしているのを車の中で待ってる。ライブ中も声援がふたりにしか挙がらない。ステージからの景色が真鍋君の前は客がいなくて、ベーシストの前だけに、僕の視界からいうと右側にだけお客さんがいて、左にいない。最初のツアーがそういう訳ですから、なかなか楽しむのは難しい。なぜならば北海道・札幌の田舎で、真鍋君と僕は人気があった。特に真鍋君は絶大な人気があった。5~600人収容のホールでやってるくらい人気があったし、僕のバンドもアマチュアながらライブで赤字になることは基本的になかった。まぁ狭いところで知名度と人気があった。今思うと当たり前だなと思うんだけど、七光りバンドだから。だけどやっぱり受け入れるのに時間がかかっただろうね。
あと音楽的にもうまくできなかったかな。当時のっけから専属PAがついてツアーを回ってる訳ですよ。それも凄いでしょ。だって客4~50しかいないんだよ(笑)。バブルだよね。音作りに関しては今思うと歌の音程が取りやすい音ではなかった。ボーカリストっていろんなタイプがいていろんな耳を持ってる人間がいて、そういうことをまだ誰も理解してなくて、『前のボーカルができたんだからお前もできるだろ?』という考え方で。でも当時はオレが年下だし、年上のプロと言ってる人が間違ったアドバイスしてきても受け入れざるを得なかった。“かわいそう、当時のオレ…”って思うよ(笑)
──1991年にはメジャー・デビューを果たして、5月にシングル「雨にうたえば」、6月にアルバム『MOON GOLD』をリリースしました。そのあとのツアーは、最初のツアーと比べて大きな変化はありましたか。
山中さわおお客さんはthe pillowsのファンが来るようになった。それははっきり言ってあっという間だった。逆に言うと1回目のツアーで僕とギターの真鍋にガッカリした人はもう来なくなったから。 “the pillowsいいじゃん”という人は残った、当たり前だけど。で、当時まだバンドブーム全盛期だったので、いろんなイベントが細かくあったんですね。そこでぐいぐい客を掴んでたと思う。最初のツアーってすごい嫌な思い出だけど、期間としてはひと月ふた月くらいなんですよ。その後『パントマイム』というインディ盤が出たときから、普通のボーカリスト、普通のギタリストとしての評価と認知度を得て、真鍋君なんかあっという間に人気が出たよ。ファンレターとか一番多かったんじゃないかな。
メジャー・デビューした頃はまだバブルの残り香が漂ってたから金もあって、デビューでロンドン・レコーディングっていう話だったんだけど、出発の2日前に湾岸戦争が起きて急遽中止になって、日本のスタジオを転々としながら急遽録ったっていう感じだったけど。プロデューサーにムーンライダーズの白井良明さんがついて、“金を掛けてドーンといくぜ”っていう。要するに、最初のツアーとは違ってデビューのツアーはたった2年後くらいでも、普通にthe pillowsというバンドを好きになったファンの前でパフォーマンスするので、気持ち的にだいぶ余裕はできてたと思う。
第2回「ステージに立つ人間としてどうなりたいか、なりたい自分になってみせるという熱い闘志があった」
いわゆる“第二期”“第三期”の頃のライブを語ったインタビューを8月中旬公開予定!
Twitterでthe pillowsにメッセージを送ろう!
あなたの人生のどこかで寄り添ったthe pillowsの音楽やライブ。
the pillowsとの出会い、何かのきっかけになった曲、忘れられないこと、
そんな、あなたとthe pillowsにまつわる思い出、ロックなエピソードを教えてください!
ハッシュタグ「#ピロウズとバスターズ」をお忘れなく!