前作『檸檬の棘』(2019年10月9日リリース)の後に書いた曲がほとんどなんですよ。なので歌詞には、近年、私が思っていることがかなり反映されていると思います。じつはもっと前にリリースする予定だったんですけど、その矢先にコロナが現れて。結果的にコロナの時代の特色を含んだ作品になりましたね。
まずは世の中の風潮として、恐怖感、脱力感、無気力感があって。あと、どんな仕事であっても、いったんストップしたと思うんですよ。リモートが進んで家で過ごす時間が増えた人も多かっただろうし、自分の仕事や人生、生きがいについてゆっくり考える時間ができてしまった。<果たしてこれは本当にやりたいことなのだろうか?>と、自己との対話を突き詰めた人もかなりいただろうなと。ミュージシャンもそうで、<予定が入ってたから音楽を続けてたけど、この先もやるのだろうか?><そもそも本当に音楽が好きなのか?>みたいなことを考えた結果、転職する人もいたんですよね。そうやって自分の深層に問いかける時期だったんじゃないかなって。
私はそれを2年前に経験してたんですよ。声が出なくなって、<音楽を続けるのか、それとも美しく引退するのか>という局面に立たされて。究極の問いに向き合って、乗り越えきたからこそ、このタイミングではまったく迷わなかったんです。むしろ加速したというか、<やっぱりこの道で間違ってなかった!>と突き進んでましたね。
そうですね。私の場合、心がイエスと言うほうに突っ走るタイプなので(笑)。公務員を辞めたのもそうだし、音楽家になった後、声を失くしてしまったときもそう。<ここで美しく消えて、小説家になるのがベストかもしれない>とも思ったけど、どうしても諦められなかったし、心の奥底で、燃え尽きるまでやらないと、消化不良のまま人生が進んでしまうと感じて。そういう経験をした私が<心がイエスと言ったなら>と歌うことで、聴いてくれる人もリアルさを感じるだろうなと。<応援歌を書きたい>という気持ちもあったんですよ。これまではジャンヌ・ダルクのように先頭を走ってきたけど、歌手歴も10年近くなってきて、包容力や母性を表現したいと思うようになって。それは私の憧れの女性、理想の女性像でもあるんです。
人を励ましたり、元気だせよ!みたいな感じは根っこにあるんだけど、いろいろな経験をして、ようやく他者の痛みが想像できるようになってきて。挫折しているときに<ひとりじゃないよ>とか<手を繋ごう>みたいな言葉をかけられても、ぜんぜん響かないんですよ(笑)。私自身も<かけて欲しかった言葉>があったはずだし、それは『心がイエスと言ったなら』の歌詞にも込めてますね。
波があるんですよね、人生には。ピーターパン症候群とかモラトリアムもそうですけど、空虚だったり、<意味ないな>という時間がないと、次のステージには上がれない。そう考えると、竹と人生の構造ってまったく同じだなって。私自身、学生のときから何度も<無>になってるし、腐り気味の時代もありましたから(笑)。感情的な波はそんなになくて、情緒は安定してる方だと思うけど、ジェットコースター型なんですよ、人生が。行く先々で問題にぶつかるし、大事なものがぶっ壊れたり、大切なものを奪われるような出来事が数年ごとにあって。そのたびに<ウソでしょ>って思うし、しんどいんですけど、同時に<黒木渚でよかった。そうじゃなかったら、もうダメになってるわ>とも思うんですよね。自分を暗示にかけてるだけかもしれないけど(笑)。
J-POPとしてはちょっと奇妙なものが出てきがちなんですよ(笑)。テンポや拍子が一定じゃなくちゃダメっていうのは理解できないし、『竹』に関して言えば、テンポが揺れていたほうが自然じゃないかなって。それをミュージシャンも当たり前に受け入れてくれて、こんなにカッコいいアレンジになって。めっちゃ嬉しかったです。
コンプレックスの問題を抱えていない人はいないと思うんですよ。それを払拭してくれるのが、オードリー・ヘップバーンやココ・シャネルなんです、私にとっては。マリリン・モンローもその一人で、彼女の言葉や生き様に触れると、自己肯定感を高めてもらえるんです。私もステージに立つ仕事をしているし、心ない人から誹謗中傷されることも当たり前にあって。そういうときにモンローに尋ねると、励ましてもらえるというか、健全な自己愛を取り戻せるんです。
うん、ありますね。ムカつくことがあったり、中傷を浴びせられても、<私は0から1を作れるからね!>って自分を励ましてるので(笑)。