テキスト:兼田達矢/撮影:ほりたよしか
一度は出かけてみたいと思いながら長く果たせないでいるツアーのひとつに、“冥界めぐり”がある。ダンテの「神曲」に始まって、長く文学作品のネタにも重用されていることを思えば、古今東西を問わず、人間の想像力を大いに刺激するツアーであることは間違いないが、先に19枚目のオリジナル・アルバム『怪談 そして死とエロス』をリリースした人間椅子の、すでに200曲を超えるという楽曲レパートリーをたどることはそれに通じる体験と言えるだろう。この日のセット・リストを眺めても「地獄の球宴」「遺言状放送」「三途の川」といったタイトルが並ぶ。彼らは重いビートと研ぎ澄ましたリフを絡めながら、誰も見たことがない存在について叫び、あるいは、誰も訪れたことのない場所へと誘う。
「何を、バカな」と、言う人がいるだろう。滑稽に思う人もいるかもしれない。が、結成から25年以上を過ぎ、現メンバーになってからでさえすでに10年を超える歳月を重ねてきた3人の演奏が、その“妄想”に不思議なリアリティーを与える。特筆すべきは彼らの演奏にはギミック要素がまったくないことで、言い換えれば人ではない存在についての歌や人であることを終えた存在についての歌をすべて、人力で表現しているということだ。そのひとつの覚悟のゆえに、“お化け”や“地獄”について繰り返し歌いながら、敢えて言えばいたって真面目な、あるいはずいぶんとひたむきなエネルギーがステージから発せられることになる。とりわけこの日は、彼らにとっては久しぶりに全15公演という数の多い本数のライブ・ツアーのファイナルということで、公演を重ねた先の熟成とファイナルならではの開放感が重なって、いっそう熱いステージになった。
ところで、ベースの鈴木研一は長年続けてきたアルバイトを辞め、専業バンドマンになって初めて臨んだツアーだけに期するところがあるだろうという予想とは裏腹に、最初のMCで「15本もやってきたのに、案の定、歌詞を間違えてしまいましたなあ」と言って、会場を和ませる。
その飄々とした口ぶりと同様のユーモア・センスは彼らの音楽に欠くことのできない個性のひとつで、だから彼らの音楽はあくまでおどろおどろしい世界を描きながら、聴き手を突き放すような恐怖をリスナーに、あるいはオーディエンスに感じさせたりはしない。白塗りの顔に僧侶のような和装と裸足という異形の風体でベースを抱えてフラフラと体を揺らすそのようすは、例えば水木しげるが描くお化けに似て、むしろ人懐こい印象さえ感じさせる。
あるいは、ステージが進むなかで演奏が加熱していき、明らかに彼自身もテンションが上がっているのに改まった調子のMCを続ける和嶋慎治の律儀さもなんだか微笑ましい。「アニキ!」とさかんに声援が飛ぶ、ナカジマノブのパフォーマンスはドラムもボーカルもMCも、とにかく体当たりだ。
そうした彼らのライブ・パフォーマンスに対する共感を素直に示す、オーディエンスの反応も熱かった。コマーシャルな展開やヒット曲の弾みとは無縁ななかで地道にライブ動員を増やしてきたバンドのライブだからこそのノー・ギミックな一体感は、客席の人たちにとっても格別な心地よさだったに違いない。おかげで反応も自ずとストレートになるのだろうが、そんなふうにステージへと差し向けられるエネルギーをメンバー3人は真正面から受け止めて、臆することも戸惑うこともなく、大いに楽しんでいた。MCでも語っていた通り、彼らはオズフェスに初めて出演した2013年に“第2のデビュー”を果たしたという意識でいるから、彼らの若々しいとも言えるステージングはデビュー3年目的な溌剌感の表現なのだろう。しかし、実際にはデビュー25年を超えて生き残ったタフネスも身についているわけだから、それは“地に足のついた溌剌感”とでも言うべきもので、その感覚がおそらくはサウンドの印象としての厚みを増すことにも関わっているだろう。
アンコールで「60歳になっても70歳になっても、命のある限りバンドを続ける所存であります」と宣言した彼らは、今年9月には全員が50歳となる。紛れもない熟年バンドだけれど、エッジの立ったリフと重心の低いアンサンブル、それにコンセプチュアルな歌詞世界で構成されるそのハードロック・サウンドは、60年代、70年代のオリジナルな王道ハードロックを聴いてきた世代の真摯な敬意で貫かれていて、だからこそ決して色褪せることがない。
もっぱらこの世ではないことを歌いながら、生身の熱情でひたすらにデカい音をかき鳴らすバンド、人間椅子の個性を満喫した夜だった。