
1991年の始動以降、良質な音楽性や異彩を放つ存在感などが多くのリスナーを魅了し、瞬く間にトップ・バンドの仲間入りを果たした黒夢。唯一無二の存在として今なお熱い支持を得ている彼らだが、清春(Vo)と人時(Ba)による2名編成での活動や絶頂期だった1999年の無期限活動休止宣言、2009年の1夜限りの復活&解散ライブ、その後2010年に再び再始動するなど、その歩みは波乱に満ちている。2025年にメジャー・デビュー30周年を迎えて10年ぶりに復活を果たし、今年7月のTOYOTA ARENA TOKYOの3デイズ、そして9月6日の東京ガーデンシアター公演を控えている清春をキャッチして、黒夢について大いに語ってもらった。
──黒夢は、どんなふうに結成されたのでしょう?
僕と人時さんは4つ歳が離れているんですけど、地元(岐阜県)に僕よりもさらに4つ上で、地元のヒーローみたいな先輩がいたんです。その人はボーカル&ギターでSUS4という3ピースのバンドをやっていたんですけど、自分はもう歌は無理だといって、SUS4に僕が誘われてボーカルで入るんです。そのバンドのローディーをやっていたのが人時さんで、彼は元々はギタリストだった。その先輩に憧れて、ギターを始めたんだと思いますけど。その後ベースに転向しました。僕は先輩が作った曲とか歌詞を歌うようになるわけですけど、一緒に音楽をやると“あら?”と思うようなことがあったり、あとは自分の曲とか、歌詞、メロディーを歌いたいと思うようになるんです。キーの問題とかもあったし。それで、やめようかなという感じになっていったら人時さんもやめるとなって、じゃあ一緒にバンドをやろうといってGARNETというバンドになり、そのあと黒夢を結成しました。それが、1991年です。
──黒夢を結成された時点で、目指す音楽性やバンド像なども見えていましたか?
先輩はBOOWYとBUCK-TICKが好きで、SUS4はビート系と呼ばれる感じのバンドだった。僕らはそれを外から見てカッコいいなと思っていたけど、先輩は明るいものも好きで、僕は明るくないのがいいなと思っていたんです。僕の音楽的な背景を話すと、元々一番最初に好きになったのは、THE STREET SLIDERSだったんです。THE STREET SLIDERS とTHE WILLARDが好きだった。そこから入って、高校生の頃にジャパメタが流行って、みんな聴いていたので自分も聴くようになって、その後BOØWYが出てきたんです。GARNETに在籍していた頃の僕らが音楽誌とかを見て、こういうふうにしたいなとよく言っていたのは、『TRANS RECORDS』というインディーズ・レーベルのバンドでしたね。ASYLUMとかZ.O.Aとか。要するに、ポップじゃないと思われるものをやりたかった。それで、そういうバンドをいろいろ聴き始めて、その中にはGASTUNKもいたし、DEAD ENDもいました。
──翳りを帯びていたり、尖りを感じさせる音楽に惹かれていたんですね。とはいえ、清春さんの中には良質なキャッチーさが根づいている印象があります。
僕はジャパニーズ・ロック/ポップスのマニアだったんです。THE MODSとかも聴いていたし、世代的にクラスでめちゃくちゃ流行っていたのは尾崎豊さんだったんですよ。“俺は、そっちじゃない”と思いつつ自然と耳に入っていたし、その前はオフコースとか、安全地帯とかも聴いていたし、普通に『ザ・ベストテン』とかを観ていました。洋楽ではなかったんですよね、僕の憧れは。邦楽のいろんなアーティストの音楽やヒットした歌謡曲が身体に入っていて、それが今言われたような印象につながっているんだと思います。
──それは、間違いないですね。それに、黒夢は誰かのフォロワーではなく、独自の個性を打ち出していたこともポイントといえます。
独自というか、混ぜこぜだったと思いますね。黒夢の結成メンバーだったギターは、44MAGNUMからのD'ERLANGERが好きという人だった。僕はTHE STREET SLIDERSが根っこにあるし、人時さんは当時はBUCK-TICK大好きだったよなぁ。黒夢は、そういうそれぞれの好みが混ざっていた印象。あとは、黒夢を結成した頃は周りの人達……友達にしても、バンドマンにしても、みんなD'ERLANGER、ZI:KILL、LUNA SEAで、自分達はどうにかそうじゃないものを形にしたいなと思ってました。
──“今はこれが流行っているから、それに乗っかろう”ではなく、他と違うところを目指したのはさすがです。黒夢は始動と同時に大きな注目を集め、インディーズ時代に渋谷公会堂を成功させるという快挙を成し遂げました。
渋公は、インディーズの最後ですね。そういう時代だったというか。バンドがステップ・アップしていって渋公を実現させて、そこで「メジャー・デビューします」と発表するという。そういう流れが美しいとされていたんです。黒夢は、そこまではスルスルッと行ったんですよ。新宿LOFTをやって、LOFTで2デイズをやって、昔のCLUB CITTA’でやって、渋公という。すごく早く進んでいけました。LUNA SEAの次が黒夢とかL’Arc~en~Cielというムーブメントでした。当時は“ヴィジュアル系”という言葉はまだちゃんとはなくて、“耽美系”とか“化粧系”と呼ばれていましたね。僕らはヴィジュアル系になろうと思って化粧したわけじゃなくて、影響を受けた人達がみんな化粧していたので、化粧するのは当たり前だったんです。ジャパメタのバンドも、皆さん化粧されていましたよね?
──していました。ジャパメタもそうですし、’80年代はLAメタルにしても、ニュー・ウェイブにしてもメイクしていましたので、それが当たり前という感覚でした。
そう。僕らは普通にそれを受け継いでいたんです。ステージに立つということと化粧はセットみたいな感じがあって、特別なことをしているという意識はなかった。当時の僕らにとっては、化粧してロックするというのが1番カッコいい世界だったんです。
──その感覚は、よく分かります。それに、デビュー当時の黒夢はヴィジュアル系と捉えられていましたが、個人的にはロック・バンドという印象を受けていました。
どうでしょうね? 僕らの中では、当時の自分達をロック・バンドだとは思っていなかったです。ヴィジュアル系のど真ん中にいる感覚も全くなくて、かといってロック……ライダース・ジャケットを着て…みたいなイメージでもなかった。いろいろ好きなので、なんでもいいかというのがあって、自分達がカッコいいと感じる音楽をやって、好きなものを着るという感じでした。
──それが、魅力的な個性になっていました。黒夢の独創性ということでは1995年にギタリストが脱退された後、清春さんと人時さんの2人体制(ドラマーは1992年に脱退)で活動を続けることを決めたこともあげられます。
黒夢は2人になるかもしれないという予感はありましたね。佐久間正英さんがメジャーの1枚目(『迷える百合達~Romance of Scarlet~』1994年3月)と2枚目(『feminism』1995年5月)をプロデュースしているんですけど、1枚目の時にレコーディングした後、翌日スタジオに行くと音が直されていることがあったんです。黒夢に限らず、当時はそういうことが多かったんですよね。僕らも演奏がヘタクソだったから、多分当時のレコード会社の人達が予算のこともあって、早くレコーディングが終わるようにしたんだと思いますけど。でも、弾いた本人にしてみれば、しこりが残るじゃないですか。そういうことがありつつ1stアルバムの次のシングルだったか、『feminism』の時だったか忘れたけど、ギターがいなくなってしまったんです。それで、そこから後は佐久間さんがギターを弾くような感じになった。それで新しいギターを探し始めたんです、実は。当時の僕らはそのシーンでは有名になれていたので、声をかければ入ってくれるという状態だったんです。でもいいなと思える人が中々いなくて、「もう、やめよう。2人でやろう」ということになりました。
──バンドらしさを保つために、とりあえず新しいメンバーを入れるのではなく、2人でいこうと決めたのは正解だったと思います。2人になってもパワーダウンすることなく、独自の魅力をさらに深めましたので。
自分達の中では2人になった時点で、ちょっと“終わった感”があったんです。日本のファンの人達は、メンバーが揃っているバンドが好きじゃないですか。メンバーが変わることも嫌うし。海外だとコロコロ変わるし、シンガーが変わることもありますけどね。そこで、我々は更に1回ロックであることを捨てようとしたんです。当時は2人となるともうバンドじゃないと思っていたので、バンド感を活かしたロックではなくて、いい楽曲を最適の形で聴かせるアーティストを目指そうという思考になった。それで、曲調も結構広がるんです。佐久間さんがもっと深く関わるようになって、一緒に曲を作ったりするようになって、かなり音楽性が広がった。暗い感じじゃなくて静かなものとか、アダルトな感じを出していったりとか。それが、『feminism』というアルバムで、分岐点になりましたね。
──2人ということによるメリットを活かされたことが分かります。
そういう考え方でした。でも、3枚目で打ち出したロック調ではないものが、自分の中ですごく苦手に感じ始めて。そういう曲を歌うこととかに抵抗を感じるようになった。当時の自分が憧れていたものと現実とのギャップに葛藤があったんです。オリコンのチャートも上がってきて、レコード会社は押せ押せムードなわけですよ。「もっと、いい曲を」「もっと、キャッチーな曲を」「もっと、こういう曲を」と言ってくる。僕達の過去の曲をあげて、「これに似たヤツを作ってほしい」とかね。それで、“いや、作れるけど……”という。チャートが大事なのはわかるけど、これはいかんなと思ってプロデューサーも換えてもらったり、いろいろしてもらって、『FAKE STAR ~I'M JUST A JAPANESE FAKE ROCKER~』(1996年5月)というアルバムを作るんです。“僕らは2人だしロックでもない、フェイクなんだ”という意味合いを込めて。
──自虐ではなく、邦楽シーンに対する皮肉ですね。
そう。僕の中には、その時その時に流行っているものに対する反発心がすごくあるし、当時は“なんだ、これ?”と思うことが多くて、それで「FAKE STAR」という曲を書きました。4枚目の音楽性に関しては、当時は日本にもちょっとずついろんな音楽が揃ってきているような時期だったんです。ミクスチャーと言われるものが出てきたりして。自分達はそういう方向性ではないもので、納得できる活路を見出したかった。それを探すために、いろいろなものを導入しました。ロック・テイストを強めたうえで同期を結構導入したり、男の子だけのライブをやってみたりとか、いろいろやっていましたね。






