編集部:山中さん、ふるさとの思い出エピソードなどがありましたら教えてください。
地元の札幌にね、すごくお世話になって、もう一度会いたいなと思ってるけど、ずっと会えてない人がいるんですよ。
僕は生まれてから6歳まで札幌にいて、小学校と中学校は小樽の銭函で暮らして。で、高校は札幌で、18で家を出て、ひとり暮らしをしたのも札幌でした。それで最初は鳶みたいな仕事に就職したんだけど、1ヵ月で辞めたんです。というのは、もうバンドをやる気だったのに、その会社では「出張に行け」と前日に急に言われるので、これはできないなと思って。そのあとは深夜2時から昼の2時までの給食センターとか、魚を1500匹焼く仕事とか、いろいろやったけど、キツくて長続きしないんですよ。喫茶店の厨房も、そこの偉い人にいじめられて、結局ブチきれて辞めたりして、なかなかうまくいかなかった。パンク・バンドをやってて、髪を染めてることにすごくこだわりがあったんだけど、そうすると仕事が限られるんですよね。でもアパートの家賃もあるし、どうしよう?と思ってました。
それである日、アルバイト雑誌を見てたら、歩いて行ける距離に印刷屋があったんです。そこに電話をして、最初に「髪を茶色に染めているけど、いいですか?」って言ったら、「ああ、髪なんか赤でも七色でも、何でもいいよ」って言ってくれて。それで面接に行ったんですね。そしたら社長さんが30歳ぐらいの、まだ若い人だったんです。どうもオフセット印刷の大きい会社の息子さんで、その加藤さんはそこのシルク印刷の会社を同級生とやってたんですね。しかも、ちょっと元不良、みたいな感じで。それで話をして、「じゃあ、よろしく」という感じで受かったんです。
で、次の日から行ったら、「今日は電話番してて。で、かかってきて『加藤いる?』って言われたら『いない』と言って」って。それが最初の仕事でした(笑)。しかも察しが良くて、俺、お金がないから「給料は最初だけ日払いでいただきたいんですけど」と言ったら、「わかった」って。「あとは何時に来て何時に帰ったか、書いといて」と……タイムカードじゃないんですよ(笑)。しかも「給料、いくら?」って俺に訊いて、計算して見せたら、ポケットから裸のお金を「はい」って出してくれて。面白いなぁと思いました。
その会社では、ピロウズをやるために東京に行くまでの2年間、ずっと働いてました。今度のアルバム(『REBROADCAST』)の「ぼくのともだち」は岩田くんという友達(=岩田晃次/HERMIT)に向けた歌なんですけど、その彼も途中で紹介して、同じ会社に入ったんです。ふたりの仕事中には、THE BLUE HEARTSとかエレファントカシマシとかコレクターズを爆音でかけてました(笑)。
そのうちに岩田と一緒にコインロッカー・ベイビーズというバンドを始めて、すぐに札幌のシーンでかわいがってもらえて、怒髪天、イースタンユース、(ブラッドサースティ・)ブッチャーズと仲良くなったんです。で、そのへんのバンドのステッカーをただで作ったり、Tシャツも作ってみたりしましたね。でも社長は何も言わないんです。ああいうのは版さえ作ってしまえば良くて、しかも会社には捨てるしかないような紙がいっぱいあって、好きに使っていいような感じだったんですよ。
会社では、印刷の仕方も覚えました。社長は仕上がりにはうるさかったから、インクを調合したり、勉強しましたね。かと思ったら社長、夜に「ああ、もう今日はビール飲みに行こう!」と急に言い出して。「えっ?これ、明日が納期じゃないんですか?」「知らねえよ、んなもん!」みたいな(笑)。でも結局、遅れると怒られるのは俺なんですよ。翌日、取引先に「できてねえって、どういうことなんだよ?」って。でも髪がピンクだったし、「すいません」と謝っても、「お前なんかに言ってもしょうがねえんだけどな!」と言われてました(笑)。
でも社長が交通事故に遭って、しばらく岩田とふたりで会社をやることになった時は大変だったなぁ。社長に「ほんとにごめんな、今入ってる仕事、ふたりでやってくんないかな」と言われて、でもそういう時に限って大きい仕事が入ってくるんですよ。ふだんは<スナックあけみ>と印刷しておしまいとか、パチンコの両替機に貼るようなのばかりなのに、その時には……十勝ダムの鳥瞰図だったかな?ひとつ60万円とかのやつを作らなきゃいけなかったり。あと、当時の北海道庁の避難経路図を作ったの、俺ですからね(笑)。しかも失敗をしてしまって、5日間徹夜をしたのはほんとツラかった。作った印刷物を岩田がドライヤーで乾かしてたら、そのまま寝ちゃって、気がついたらバーッと破いちゃったりしてて……「お前、何やってんだよ~!」みたいな。そんな仕事をしてたから、俺、印刷には厳しいんですよ。グッズでも「Tシャツのサンプルでちゃんとした色ができてこないってどういうこと?」みたいな(笑)。
今思えば、加藤さんには、自分が19からハタチになる頃に、大人になる勝手をいろいろ学んだんですよね。ほんとに、いい社長でした。俺が東京に行くから辞める時に、ただのバイトだったのに退職金を20万ぐらいくれたんですよ。そのあとにピロウズでデビューしてから会いに行ったら「おお!」って歓迎してくれて。でも「手ぶらか?CDとかポスターとか持ってこいよ、バカ」「ああ、そうですよね、すいません」みたいな(笑)。
でも……10年前ぐらいかな?会いに行ったら、建物のドアにピロウズの、ポニーキャニオンの時のロゴステッカーがまだ貼ってあったのに、中身は違う印刷屋になってたんですよ。それでその中の人に「前にいた人のことはわからないですね」って言われました。
だから加藤さんには、25年ぐらい会えてないんですよ。もし会えるのなら、またお会いしたいですね。
僕は生まれてから6歳まで札幌にいて、小学校と中学校は小樽の銭函で暮らして。で、高校は札幌で、18で家を出て、ひとり暮らしをしたのも札幌でした。それで最初は鳶みたいな仕事に就職したんだけど、1ヵ月で辞めたんです。というのは、もうバンドをやる気だったのに、その会社では「出張に行け」と前日に急に言われるので、これはできないなと思って。そのあとは深夜2時から昼の2時までの給食センターとか、魚を1500匹焼く仕事とか、いろいろやったけど、キツくて長続きしないんですよ。喫茶店の厨房も、そこの偉い人にいじめられて、結局ブチきれて辞めたりして、なかなかうまくいかなかった。パンク・バンドをやってて、髪を染めてることにすごくこだわりがあったんだけど、そうすると仕事が限られるんですよね。でもアパートの家賃もあるし、どうしよう?と思ってました。
それである日、アルバイト雑誌を見てたら、歩いて行ける距離に印刷屋があったんです。そこに電話をして、最初に「髪を茶色に染めているけど、いいですか?」って言ったら、「ああ、髪なんか赤でも七色でも、何でもいいよ」って言ってくれて。それで面接に行ったんですね。そしたら社長さんが30歳ぐらいの、まだ若い人だったんです。どうもオフセット印刷の大きい会社の息子さんで、その加藤さんはそこのシルク印刷の会社を同級生とやってたんですね。しかも、ちょっと元不良、みたいな感じで。それで話をして、「じゃあ、よろしく」という感じで受かったんです。
で、次の日から行ったら、「今日は電話番してて。で、かかってきて『加藤いる?』って言われたら『いない』と言って」って。それが最初の仕事でした(笑)。しかも察しが良くて、俺、お金がないから「給料は最初だけ日払いでいただきたいんですけど」と言ったら、「わかった」って。「あとは何時に来て何時に帰ったか、書いといて」と……タイムカードじゃないんですよ(笑)。しかも「給料、いくら?」って俺に訊いて、計算して見せたら、ポケットから裸のお金を「はい」って出してくれて。面白いなぁと思いました。
その会社では、ピロウズをやるために東京に行くまでの2年間、ずっと働いてました。今度のアルバム(『REBROADCAST』)の「ぼくのともだち」は岩田くんという友達(=岩田晃次/HERMIT)に向けた歌なんですけど、その彼も途中で紹介して、同じ会社に入ったんです。ふたりの仕事中には、THE BLUE HEARTSとかエレファントカシマシとかコレクターズを爆音でかけてました(笑)。
そのうちに岩田と一緒にコインロッカー・ベイビーズというバンドを始めて、すぐに札幌のシーンでかわいがってもらえて、怒髪天、イースタンユース、(ブラッドサースティ・)ブッチャーズと仲良くなったんです。で、そのへんのバンドのステッカーをただで作ったり、Tシャツも作ってみたりしましたね。でも社長は何も言わないんです。ああいうのは版さえ作ってしまえば良くて、しかも会社には捨てるしかないような紙がいっぱいあって、好きに使っていいような感じだったんですよ。
会社では、印刷の仕方も覚えました。社長は仕上がりにはうるさかったから、インクを調合したり、勉強しましたね。かと思ったら社長、夜に「ああ、もう今日はビール飲みに行こう!」と急に言い出して。「えっ?これ、明日が納期じゃないんですか?」「知らねえよ、んなもん!」みたいな(笑)。でも結局、遅れると怒られるのは俺なんですよ。翌日、取引先に「できてねえって、どういうことなんだよ?」って。でも髪がピンクだったし、「すいません」と謝っても、「お前なんかに言ってもしょうがねえんだけどな!」と言われてました(笑)。
でも社長が交通事故に遭って、しばらく岩田とふたりで会社をやることになった時は大変だったなぁ。社長に「ほんとにごめんな、今入ってる仕事、ふたりでやってくんないかな」と言われて、でもそういう時に限って大きい仕事が入ってくるんですよ。ふだんは<スナックあけみ>と印刷しておしまいとか、パチンコの両替機に貼るようなのばかりなのに、その時には……十勝ダムの鳥瞰図だったかな?ひとつ60万円とかのやつを作らなきゃいけなかったり。あと、当時の北海道庁の避難経路図を作ったの、俺ですからね(笑)。しかも失敗をしてしまって、5日間徹夜をしたのはほんとツラかった。作った印刷物を岩田がドライヤーで乾かしてたら、そのまま寝ちゃって、気がついたらバーッと破いちゃったりしてて……「お前、何やってんだよ~!」みたいな。そんな仕事をしてたから、俺、印刷には厳しいんですよ。グッズでも「Tシャツのサンプルでちゃんとした色ができてこないってどういうこと?」みたいな(笑)。
今思えば、加藤さんには、自分が19からハタチになる頃に、大人になる勝手をいろいろ学んだんですよね。ほんとに、いい社長でした。俺が東京に行くから辞める時に、ただのバイトだったのに退職金を20万ぐらいくれたんですよ。そのあとにピロウズでデビューしてから会いに行ったら「おお!」って歓迎してくれて。でも「手ぶらか?CDとかポスターとか持ってこいよ、バカ」「ああ、そうですよね、すいません」みたいな(笑)。
でも……10年前ぐらいかな?会いに行ったら、建物のドアにピロウズの、ポニーキャニオンの時のロゴステッカーがまだ貼ってあったのに、中身は違う印刷屋になってたんですよ。それでその中の人に「前にいた人のことはわからないですね」って言われました。
だから加藤さんには、25年ぐらい会えてないんですよ。もし会えるのなら、またお会いしたいですね。
編集部:思春期に信頼できる大人がいる幸せ、素敵です。
このアルバイトの経験もあり、グッズやポスターなどの色のチェックにはかなり厳しくなったそうです!
山中さわおさん、ありがとうございました!
このアルバイトの経験もあり、グッズやポスターなどの色のチェックにはかなり厳しくなったそうです!
山中さわおさん、ありがとうございました!