日本映画史に残る傑作『八甲田山』がシネマ・コンサートになって、来春1月14日(月・祝) に東京・NHKホールにて開催される。1977年に公開されたこの映画は、明治35年(1902)に真冬の八甲田山中で199名の犠牲者を出した遭難事件を描いた新田次郎の名著「八甲田山死の彷徨」が原作。3年間をかけた撮影には事件当時とほぼ同じ気象条件の元、雪の八甲田山で行われた。あまりの寒さに逃げ出した俳優もいたという過酷な現場で踏ん張り、カメラを廻し続けたのが木村大作だ。映画では「撮影 木村大作」と1枚タイトルでクレジットされている。撮影で1枚タイトル・クレジットされたのは日本映画界で木村が最初。八甲田山は木村のカメラがなければ完成しなかったとも言われ、脚本製作の橋本忍と監督の森谷司郎の二人が木村のカメラに対して最大限の敬意を払ったのだ。
<撮影監督を直訴>
木村が『八甲田山』の撮影に入ったのは35歳。キャメラマンとしてはまだまだ駆け出しの年齢だ。そこで木村は監督に直談判した。全責任を取れる仕事やりたいんで、B(2番手)じゃなくて、メインだったらやります!と。監督もこの意気に応えた。「技術より体力的に頑張れるやつが重要だったんだよな。その頃、俺は元気だったからね(笑)」と若気の至りを懐かしむ。こんな経緯があったからこそ、『八甲田山』は木村にとって、自らが勝ち取った映画だという特別な思いがあり「八甲田山をやってなければ、今の俺はないよ」とまで言い切るほどだ。
<撮影現場まで3時間!いい絵を撮るために3日待った>
撮影は実際の遭難事件が起きた八甲田山・山中で行われた。「全部、本物の場所で撮る。映画は場所なんだよ」と言う。苦労して撮影場所まで3時間も歩くと、思いが籠もるそうだ。このシーンをここでやるのか、と先ずは俳優に納得してもらう。そうすると、その思いが籠もって確実に画面に出るという。「納得すると芝居が変わるよ」とも話す。岩木山を背景に徳島大尉(高倉健)率いる弘前歩兵第三十一連隊の出発シーンには3日かけた。岩木山のいい絵を撮るためだけに。昼間は逆光になるので早朝か夕方を狙った。毎朝6時に旅館を出発し、ひたすら待つ。カメラは俳優から歩いて30分の距離で構える。あくまでも岩木山がメインなので役者は豆粒ぐらいにしか映らない。後に高倉健は、俺たちじゃなくてもいいんじゃないか?とこぼしたぐらい。あくまでも「自然」に真正面から対峙して、「自然」が降りてくるのを待つ。それが木村の姿勢だ。しかし、雪崩だけはいつ起きるかの予測はつかない。さすがにこのシーンの撮影にはダイナマイト80本を雪山に仕掛けて人工的に起こした。木村は最後方で構え、先頭のカメラは雪崩で埋まった。幸い無事だったそうだが、まさに命がけの撮影を行っていたのだ。
<木村自ら極寒の十和田湖に飛び込む>
<3年間の撮影中に高倉健と交わした会話はたったの3回>
<休日返上で雪中の自主稽古に打ち込む北大路欣也>
そして本番がスタートする。棺に近づくと居ないはずの北大路が中にいる。それを見て「健さんは鼻水は垂れてくる、涙が溢れてくる…。フィルムは10分間しか撮影できないんだけど、5分間何も喋らない。その顔を見ていると、こちらもカットを入れられなくて」。現場の緊張も尋常じゃない雰囲気に包まれる。ようやく高倉が一言、「雪の八甲田でお会いしましたね...」と。それから、また、無言。しかし、感情は入っている。10分後、フィルムがなくなり、そこで「カット!」。シナリオには他のセリフも書かれていた。撮影が終わって高倉が「あれで良かったでしょうか?」と訊いてきた。「シナリオに書かれた以上のことを表現してるわけなんだよ。森谷さんも俺も、『オッケーです』と。欣也さんや健さんはそういう事をやる人なんだよ、雪の中のオープンセットで」とふたりの凄まじいまでの役者魂に舌を巻く。実は北大路のキャスティングは高倉の指名だった。かつて高倉が撮影所で往年の名優・市川右太衛門に幼い息子(北大路欣也)を紹介されたのが縁だったようだ。木村も「ああいう映画は心が通い合っている同士でやらないと!」と述懐する。
<木村大作の渾身監修で甦った八甲田山>
又、木村大作のインタビューは、12月22日(土)深夜にBS朝日「japanぐる~ヴ」にて放送される。