映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』(現在大ヒット公開中)の成功を受け、音楽フェス「コーチェラ・フェスティバル」でアイス・キューブの呼びかけによって、メンバーが再結集すると言われているN.W.A.。アイス・キューブ、ドクター・ドレー、DJイェラ、MCレンの4人が一堂に解する可能性と同時に、やはり気になるのが噂されている故イージー・E(1964−1995)のホログラムでの復活だろう。
生まれも育ちも生粋のコンプトンっ子。高校を退学し麻薬ディーラーとして生計を立て一財を成した筋金入りのギャングにも関わらず、大検取得者という意外な一面も持つ。『ストレイト・アウタ・コンプトン』でも描かれるが、ブラッズとクリップスという2大ギャング・グループが抗争を繰り広げる日常でイージー・Eにとっては、ギャングを演じきることが残された生き残る術という止むに止まれぬ事情があったようだが、麻薬ディーラーとしてヤツは「仕事が出来る男」だった訳だ。
麻薬売買で稼いた25万ドル(3000万円)をレコード会社の設立資金に投資し(後にさらに100万ドルを追加投資したと言われる)、実業家そしてラッパーになる足がかりをつくる。こうして誕生したルースレス・レコードを率い、80年代半ばから大きな盛り上がりを見せたロサンゼルスのヒップホップ・ビジネスに着目、イージーが声をかけたドクター・ドレーが、地元の精鋭ラッパー部隊を編成しグループを結成することとなる。
かくして誕生したN.W.A.は、80年代後半の西海岸におけるギャングスタ・ラップのブームを加速させる存在として物議を呼んだが、その内情は、大分ホラ話で盛ったイージー・Eや仲間たちの「ギャングの武勇伝」を、フェニックス工科大学建築学部中退のインテリであるアイス・キューブが過激なリリックに加工し、秀逸なストーリーとして完成させたというのは有名な話だ。
今や映画のタイトルとなりN.W.A.の代名詞となったアルバム『ストレイト・アウタ・コンプトン』(1988)。全編に渡り放送出来ない言葉で散りばめられたこの傑作アルバムも、イージー・Eの存在無しには誕生しなかっただろう。この作品の成功の後、アイス・キューブの脱退を皮切りに、ドクター・ドレーとの契約解除問題で揉めに揉め、1991年N.W.A.は終焉に向かっていく。その後抜けていったメンバーとイージーの仁義無き戦い、特にドクター・ドレーとの曲を介した罵り合いは、当時としてはガチ、今となってはプロレス的な情緒すら感じさせるが、彼らの抗争が「燃料」となって一気に燃えさかりアイス・キューブ「AmeriKKKa’s Most Wanted(白いアメリカが最も望むもの)」(1990)、ドクター・ドレ−「The Chronic」(1992)と次々とリアルな傑作が産み落とされた訳だ。
イージー・Eは1995年の2月24日ぜん息が悪化し入院し自らがエイズであると診断、その後3月16日に病状を公に公表、その10日後の3月26日に死去した。
後日談だが、病の診断前に犬猿の中といわれたドクター・ドレーと電話で和解していたという。確執の歴史から時が過ぎ、改めてそのビジネスセンスや存在が評価されているイージー・Eことことエリック・リン・ライト。ある意味「イージー・EなくしてN.W.A.はなし」といっても過言ではない。
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