曲を聴くだけなら音源でいい。アーティストが歌っている姿が見たいならYouTubeや配信を見ればいい。涼しい部屋で手軽に、快適に音楽を楽しむ方法はいくらでもある。
にもかかわらず、夏になると私たちはフェスに行く。電車やバスを乗り継ぎ、汗をダラダラかき、時には泊まりがけで、時間とお金と体力を費やして。
初めて夏フェスというものに行ったのは、大学生何年生かの時だ。音楽好きでアクティブな友達に誘われて、ボディバッグとキャップを身に着けて、2時間近く電車に揺られた。
会場は広くて、地図と照らし合わせながらひたすら歩いて一番大きなステージを目指した。ステージ横の大きなスピーカーの前を陣取ったら、当たり前だけど馬鹿みたいに大きな音が出て、それが自分の体内の骨に当たってびりびり鳴っているのを文字通り体感した。それは、自室のスピーカーやイヤホンで音楽を聴くのとはまったく違った体験だった。そこで私は、自分の体内に音を響かせる装置が備わっていることを知った。
クレーンカメラが映し出す会場には、信じられないほどの数の人が信じられないほど遠くまでぎゅうぎゅうに並んでいて、ステージ上から鳴り響く音楽に反応して、みんなが一斉に飛び跳ねたり、手を振ったりしていた。明日にはばらばらの場所で、もっときちんとした服装で、学校に行ったり仕事をしたり友達と会ったりしているのであろう人たちが、今だけは同じステージを見て、同じ音を聴いている。こんな瞬間がこの世にはあったのかと、不思議な気分になった。
まだまだある。初めてモッシュに巻き込まれてもみくちゃになった。フェス飯のカロリーと値段の高さにツッコミを入れながらも、お祭り気分の中では気持ちも財布のひもも緩んだ。それまで興味のなかったはずのバンドが、ステージ上で歌ったらめちゃくちゃよくて一気にハマった。音程が合っているとかリズム感がいいとか声がいいというだけではない、生で見た時に初めてわかる、胸に訴えかけるパフォーマンスがあることを知った。街中を歩いている時に噴き出してくる汗は不快で仕方ないのに、芝生の生えた会場でスポーツドリンクを一気飲みしながらこめかみを流れる汗は全然嫌じゃなかった。
ある年、とあるステージを見た後、その日のトリのBUMP OF CHICKENがアクトする一番大きなステージに向かっていたら、遠くからかすかに「虹を待つ人」が聴こえてきた。たまらず、友達と一緒に歌いながら、スキップするように歩いた。外で歌いながら歩くなんて、普段だったら絶対にありえない。スキップなんて下手したら小学生とか、それくらいぶりだ。でも歌わずにはいられなかったし、跳ねずにはいられなかったし、その時はそれが恥ずかしいなんてまったく思わなかった。
そう感じたのは私たちだけではなかったようで、他の何人もが同じようにかすかなメロディを頼りに歌い出していて、そこには小さな合唱が生まれていた。夕方から夜へと向かう、オレンジと濃紺のグラデーションを描く空の下で、みんなで同じ歌を歌いながら、魚の群れが泳ぐみたいにおなじのステージを目指した。あの時のえもいわれぬ解放感と一体感は、他ではちょっと味わったことがない。
時間と手間をかけてやってきた日常から少し遠い場所で、天井も壁もなしに太陽光と風を浴びながら音楽を聴いていると、昨日からも明日からも切り離された自由な自分になれた。斜に構えて過ごしている普段の自分だったら綺麗ごとと鼻で笑い飛ばすような「愛と平和」なんてフレーズも、汗だくの山口隆が歌えば紛れもない真実だったし、尾崎世界観に散々煽られれば、知らない人たちとぎゅうぎゅう押し合いながら「今度会ったらセックスしよう!」と恥も外聞もなく大声でコーレスした。
フェスのことを思い出そうとすると、こうやってその空気感までもが一緒によみがえってくる。暴力的な日差しの中、ステージ前でじりじりと次のアーティストを待った正午。疲れ始めて、木陰に座ってぼんやりしながらよく知らないバンドの曲を聴く昼下がり。吹く風に涼しさが交じり始める夕暮れ。ステージと機材の照明が煌々と光りだす宵の口。アスファルトが敷き詰められた街中では感じることのない、草いきれの匂い。太陽の動きとともに変化していく気温、移り変わっていく空の色。ただの水のおいしさと、密集した人々からわきあがる熱気。
ただライブに行ったんじゃない。ただ歌を聴いたわけじゃない。それは、夏の一日を全身で味わった、五感ぜんぶの記憶だ。
曲を聴くだけなら音源でいい。アーティストが歌っている姿が見たいならYouTubeや配信を見ればいい。それこそ、コロナ禍に見舞われたこの2年で動画コンテンツは一気に充実し、配信ライブも当たり前になった。音楽やライブを摂取する方法なんていくらでもある。
それでも、夏になるとフェスに行きたくなる。夏のど真ん中で、昨日からも明日からも切り離された場所で、体中に音を響かせるあの場所に。