渋谷公会堂物語 〜渋公には伝説という魔物が棲んでいる〜 序章-前編- 語り手:(株)ディスクガレージ 中西健夫

コラム | 2018.02.05 18:00

──BOØWYが解散を発表したライブ(1986年12月24日)の話を聞かせてください。調べてみると、BOØWYは1985年に1回目の渋公をやって、1年後にはあっさり武道館に行っちゃうわけですけど、あの時わざわざまた渋公を選んだんですね。
それは、解散の発表をするのは、初めて渋公をやった日と同じ日にするっていう。もう亡くなっちゃったんですけど、土屋っていうマネージャーがいて、2人で「そこしかないね」と。ここでヒムロックにどこで話ししてもらうかとか相談しようっていうような、そういうからくりでやったんですよ。
──なぜ、渋公だったんですか?武道館だって絶対やれるわけじゃないですか。あの時の勢いだったら。
ドームでもなんでもできた時期ですよね。でも、敢えて渋公でやるということにみんなの思い入れがぎゅっと凝縮してたんです。メンバーはわかんないですけど、少なくとも僕らスタッフサイドとして、渋公が終わった後、打ち上げした時の話とか、鮮明に覚えてるんで。メンバーにとっても、群馬から出てきて、東京の、当時で言うとナンバーワンの会場でできるという嬉しさとか達成感とか、それはすごくあったと思いますよ。スタッフもそうだったし。だから原点回帰じゃないけど、そこに戻るっていう。

──レベッカについては、2015年の再結成時のインタビューで、土橋さんが「いっぱい人がいる前でレベッカがやった初めての場所が、12月25日の渋公だった」という話をされたんです。その渋公のライブというのは、1985年10月に「フレンズ」が出て11月に『REBECCA IV~Maybe Tomorrow』が出て、12月じゃないですか。ツアーの会場をブッキングするのはその半年くらい前だから、その時点では、他の地域はみんななんとか会館の小ホールとかね、300人とか400人の会場でやってたのに、中西さんだけが、他でもないクリスマスの日に、渋谷公会堂を選んだわけですよね。
絶対売れると思ったんですよ。間違いなく売れるっていう。なんの根拠もない自信。
──そこで、土橋さんが言うには、「レコードが売れてる、売れてると言っても…」
実感がないんですよね。
──そうなんです。で、ツアーで地方を回って、「会場に入れないお客さんがたくさんいて、大変だ」みたいなことは聞いてても、ライブをやる時目の前にいるのは300人じゃないですか。それがいきなり渋公で2000人になったのはすごく覚えてると言ってました。
レベッカは渋公、って決めてたんです。BOØWYとレベッカは渋公って。根拠のない自信。
──で、見事に、彼らも伝説化するようなステージをちゃんとそこでやるわけですよね。
そうですね。その後のレベッカもBOØWYも、もう破竹の勢いになっちゃって。ただ、かたや大衆に向かったレベッカと、かたやロック層にどわっといったBOØWYっていうのに分かれたんですよ。
──そうですね。
だからレベッカは、その後は例えば野球場とか横須賀の大きいイベント会場とかっていう、キャパを追いかけていくようなシフトで考えるし、BOØWYのほうはすごくコンセプチュアルな、例えば横浜文体でやったりとか、かっこいいけど見れない、飽和させてしまうっていうやり方を選ぶっていう。真逆のコンセプトでやってたのをすごく覚えてますね。

1985年「このハガキが届いた貴方、BOØWYファン、REBECCAファンなら大ラッキーです!」というメッセージと共に送られた、まさにお宝DM

──そういう、それぞれのストーリーのジャンプボードになったのが渋公でのライブだったわけですね。
渋公という、みんなが憧れてた場所を踏んだことによって、バンドに急にメジャー感が出てくる。メジャー感が出る/出ないってやっぱギリギリのところがあるんですよ。
──渋公というもののステータスがある程度定まってきた時に、ある意味では武道館とかドームに行くための通過点でもあるわけですが、その通過の仕方やタイミングも大事だということを中西さんは話されていましたね。
そうなんです。正直に言って、全部が全部成功するわけじゃないじゃないですよ。もっと言ったら、成功するのは1割か2割なわけじゃないですか。例えば僕は、egg-manでライブを観て、そこでいつも“渋公のステージが見えるか、見えないか”というシミュレーションをまずするんですよ。で、「見えた!」と思ったら無理しちゃうっていう。だからもう完璧に勘ですよね。
──でもバンドに限らず、なんでも立場が人を作るみたいな話ってあるじゃないですか。
そうなんです、そうなんです。
──だから「渋公やるぞ!」と言うことによってバンドのスケール感とか…。
モチベーションがどんどん上がっていくバンドは、売れるバンドなんです。
──ちょっと時代が下がって、Mr.Childrenは、もう今や「渋谷公会堂をやった時期もあったんだね」ぐらいの大メジャーになってしまっているわけですが、初めて渋公をやった頃はまだ「若手の有望株」ぐらいの評価でしたよね。どういうタイミングでMr.Childrenに渋公を踏ませるかみたいなことは考えましたか?
考えました。東京と大阪をどういうふうにしようかって考えてましたね、あの時確か。大阪はここでやる、東京はここでやるっていう。これをいけるかいけないかを、当時、(事務所の社長の)門池さんとすごく話した記憶があります。正直に言って、ミスチルってデビュー当初は、ライブ・バンドのていはあんまりなかったんですよ。例えば同じ事務所のジュンスカはもう圧倒的にライブ・バンドのていだったんだけど、ミスチルは「すげーいい曲だよね」みたいなイメージのほうが強かった。だから、「逆にライブやらないとダメじゃないかな、ライブで骨格をちゃんと作っていくというのがいいんじゃないの」という話をした記憶がありますね。
──ミスチルは初渋公が93年ですけど、その時にはもう渋公伝説のほうが確立してるから、その渋公で鍛えてもらって大メジャーバンドになっていった世代と言っていいんじゃないでしょうか。
そうだと思います。だいたい出来上がってた時代ですからね。ミスチルとかの前に。例えばプライベーツとか、アンジーとか、シェイディ・ドールズとか、いっぱいいたじゃないですか。ああいうバンドがみんな渋公目指してやってた時代ですよね。
──そうですね。
レッド・ウォーリアーズもそうだし。あとはスライダーズとかもそうか。ジギー、カッツェ…、などなど。素敵な時代ですよね。

  • 兼田達矢

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    兼田達矢

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