cali≠gariの3人が「初めて立ったステージ」は?

スペシャル | 2024.07.05 19:00

編集部:みなさんが初めて立ったステージの思い出を教えてください。

桜井青(Gt)の初ステージの思い出

──青さんが初めて立ったステージはいつごろですか?
桜井青(Gt)ステージってどのレベルですか? それこそ古くていいのなら学祭とか。高3のとき、ギターを始めて半年ぐらいで。
──コピー・バンドですか?
桜井そう。「どうしてもUP-BEATがやりたい」って言ったら、ほかのメンバーから「爆風スランプもやるならいいよ」って言われて(笑)。
石井秀仁(Vo)へえ~。それで両方やったの?
桜井うん。で、ヴォーカルがcali≠gariの初代ドラム(笑)。
──オリジナル・バンドはcali≠gariが最初ですか?
桜井そうですね。1993年の9月11日、池袋CYBERが最初です。cali≠gariって正ヴォーカルがいない状態で始まったんですけど、そのときのサポートヴォーカルが紅梁樹さんっていう茨城で人気があった人で、「紅梁樹さんが新しいバンドをやるぞ!」って感じで女の子たちが大量に来たんです。だからもう、おんぶにだっこでした。
──当時のことで覚えていることはありますか?
桜井昔のライヴハウスって説教されがちだったよね?
石井そういう文化、ありましたよね。ライヴハウスの偉い人に感想を聞きに行かなきゃいけないみたいなね。
桜井高円寺LAZYWAYSに初めて出たときは、「君たちは何がやりたいのかわからない」って言われました(笑)。格好もよそとはちょっと違ってましたしね。周りは真っ黒ななかで、僕は普通にショートパンツとワイシャツとかだったんで。
石井おしゃれだったんですよ。俺が対バンとかで観てたころの、初期のcali≠gariは。でもそのあとが大正浪漫だから。ヴォーカリストの方が変わった途端に「あれあれ?」って(笑)。
──(笑)大正浪漫というと、たしか研次郎さんがcali≠gariに誘われたときにそういう説明を受けたんですよね?
村井研次郎(Ba)そうです。当時の雑誌にも「大正浪漫の何とか、cali≠gari」って書いてありましたよ。知り合いからも「大正の世相、時代をモチーフとしたヴィジュアル系バンド」みたいなことを言われました。
桜井大正っていうか、昭和初期? 江戸川乱歩や横溝正史にしても、背景は大正から昭和初期でしたからね。ただ、「陰惨な感じ」ということなら昭和より大正浪漫って言ったほうが伝わりやすかったってことですかね。

村井研次郎(Ba)の初ステージの思い出

──研次郎さんが初めて立ったステージはいつごろですか?
村井中3の文化祭ですね。アイアン・メイデンをやりました。女子はみんなポカーンですよ。
──でしょうね(笑)。
村井別にモテようと思ってバンドを始めたわけじゃないんで。メタルが好きでやってたから。高1、高2もほぼ同じメンバーで文化祭に出て、大学では学園祭のステージに出て。オリジナル・バンドは大学4年のときにcali≠gariで渋谷のeggmanに出たのが最初です。
──cali≠gariの初ライヴはいかがでした?
村井女の子のお客さんしかいなくて、振り付けやってるのを見てびっくりしました。当時はヴィジュアル系界隈じゃなくて、渋谷とか下北のライヴハウスに出ていた時期だったので。
──となると、衣装はどんな感じだったんですか?
村井僕は私服で。大学生のころはTAKA-Q(タカキュー)の服しか持ってなかったんで、それを着てました。そもそも「衣装」って考えがないんで、化粧も衣装もノープランで会場に行って。でも化粧はしてもらいましたよ。だから首から下はTAKA-Qで、首から上は目の周りが真っ黒で(笑)。
──それはそれで奇抜ですね(笑)。
村井ね(笑)。でも、お客さんは誰もこっちを観てないし、別にいいかなと思って。当時はMCがなかったんで、紹介された記憶もないんです。お客さんからすると、誰かわからない人がベース弾いているなって感覚だったんじゃないですか? だから、cali≠gariにはしれっと入った感じです。サポートだったから緊張もまったくなく。「僕は子宮」とか「嘔吐」とか、5~6曲楽しくやって帰ったんじゃないかな。

石井秀仁(Vo)の初ステージの思い出

──では、石井さんの最初のステージはいかがです? コピー・バンドをやっていたことはあるんですか?
石井ちゃんとしたコピー・バンドはないですね。
──いきなりオリジナル?
石井そうですね。機械が好きだったから、MTRとかリズムマシーンとか買って曲を作るとか、そういう感じでやってましたね。
──それで、その曲をやるためにバンドを?
石井自分のバンドってことでもなくて。どういういきさつで集まったバンドかは覚えてないんですけど、でも地元のライヴハウスで普通に歌って、っていうのが最初ですね。それが15~6歳のとき。
──曲を作っているうちにライヴでやってみたくなったとか?
石井そういうのに憧れているようなタイプじゃなかったですね。当時からわりと、いまみたいな感じだったんですよ。知ったふうな感じというかね。「ライヴをやれて嬉しい」とか「キャーキャー言われて嬉しい」とかじゃなくて、「俺がやりたいのはこんなんじゃないんだよな」と思って。ライヴをやってみて、「こんな田舎でやっていても意味ないから、すぐ東京に行こう」って決意したって感じですかね。自分の実力とかは棚に上げて。
──そうすると、ずっと音楽をやっていくっていう気持ちはその時点であった?
石井そんなに大げさにも考えてなくて。ただ、自分が求めるバンドは地元でやっていたようなレベルのものじゃなかったし、何年後とかまでにと待ってもいられなかったんで、とにかくすぐに東京へ行って。だから極端で、自分が初めてやったライヴは地元のライヴハウスなんだけど、その3~4か月後ぐらいにはもう新宿ロフトとか目黒鹿鳴館とかに出ていたんですよ。一気に飛び級した感じというか、頭の中で考えてた通りにできていたんですね、スタートは。それでとにかくイキがっていたっていう(笑)。俺はもっとやれるぞ、ってずっと思っていたから……若い頃はですよ(笑)? 自分が何者なのかわかってなかったから、調子こいていましたね。だから止めるタイミングも早かったんだけど。
──バンドを?
石井そうそう。何年かやって、これはダメだと思ってすぐ止めちゃって。
──そうすると、cali≠gariに入るまで数多くのバンドをやられていたんですか?
石井やってましたね。みんな半年とか1年ぐらいで終わりましたけど。
──そんな状態からcali≠gariに入ってもう24年。それまでは早めに見切りをつけて、次々にバンドを移ってきたわけですけど……。
石井そうですね。“バンドを結成してライヴをやる”ってことに対して求めていたクォリティーが高かったんです。だから東京に出て来たんですけど、来たら来たで、周りのバンドに対して「こんなもんなんだ」って落胆しちゃって。自分がすごいなって思っていた人たちも普通の人間か……と思って、だんだんおもしろくなくなってくるみたいな。まあ、なかには青さんみたいなおもしろい人もいたけど(笑)、自分とはまた別の世界の人っていうか。cali≠gariはcali≠gariでライヴをやっていたし、自分はそういうんじゃないなと思って。それで冷静になってみると、ステージに立って、真ん中で歌うたって、MCして、とかそういうのは全然自分の性に合ってないし、なんでこんなことやってんだっていう気持ちになったっていうかね。
──そんななかでcali≠gariと出会えてもらえてよかったです。
石井そうですね。よかったんじゃないですかね。こういう変わったバンドだから、自分みたいなのでもハマったっていうか。フロントマンとしての資質みたいなのはまったくないけど、自分のそういう部分が活かされるというかね。だから続いてるんだと思いますよ。
編集部:初ステージの思い出、そしてみなさんのcali≠gariとしての初ステージの貴重なエピソードもお話しいただきました!ありがとうございました。

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