去年がちょうど、レコード・デビューして55年なんです。でも実際のところはその前の年、昭和39(1964)年からステージに立っていたので、その時期から不良の生活が始まりました(笑)。私は昭和22(1947)年うまれで73歳になりますが、こんなに長く歌手をやろうとは思っていませんでしたから。
僕は特に歌を習っていたわけではなく、中学生の時に、友達に誘われてブラスバンドに入ったのが、音楽との出会いです。途中で入ったので、余っている楽器はピッコロしかなかったんだけど、これが難しくて。その後フルートに転向しましたが、どっちも単音楽器でしょ? だから僕はいまだにアンサンブルとかコーラスに憧れるんです。ギターに関しては、高校1年の頃、すごくギターが上手い先輩がいて、「布施君、ギター弾ける?」って聞かれたから、見栄を張って「ええ、もちろん」と言ってしまって(笑)。弾けないっていうのが悔しくてね。それで慌てて近所の質屋に行って、親父さんから一番安いギターを買って、1週間で3コードだけは弾けるようになったんだけど、先輩には大して弾けないことがすぐバレました(笑)。
でも、それが歌を始めるきっかけになったんです。その先輩がラテンのトリオでギターをやっていて、トリオ・ロス・パンチョスのコピーなんかしていた。そこで僕も歌い始めて、いまだにラテンの曲は好きですよ。その後、日本テレビの『ホイホイ ミュージック スクール』というオーディション番組で合格して、歌手になるわけですが。
カンツォーネはまだデビュー前、僕がジャズ喫茶などで歌っている頃、ブームになったんですよ。僕もガラガラ声のニコラ・ディ・バリなどは好きで、「青春に恋しよう」はよくステージで歌っていました。カンツォーネといえばイタリアのサンレモ音楽祭ですが、その頃、ボビー・ソロが「ほほにかかる涙」で優勝したんです。それを日本のプレスリーと呼ばれた、ほりまさゆきさんがカヴァーして。ボビー・ソロも「イタリアのプレスリー」と呼ばれていたからそんなつながりでね。翌年、またボビー・ソロがサンレモで優勝したんです。その曲「君に涙とほほえみを」を再びほりさんが歌う予定でしたけど、体を壊されてしまって、歌手を辞めてしまった。でも、サンレモ優勝曲だし、誰かに歌わせなきゃ…となったところで「そういえば、ジャズ喫茶で歌っている、やたら声がでかいやつがいるぞ」という話になり、それで僕が選ばれたんです。
僕が歌手を始めた頃は、アメリカン・ポップスのブームでした。でも、東京オリンピックの頃から、ビートルズが出てきて、ポップスの世界がガラッと変わりましたから。当時、ビーチ・ボーイズがやっていたアメリカン・ポップスと、ビートルズのサウンドを比べると、プロとアマチュアぐらいの差がありますよ。でも、ビートルズの「粗さ」が良かったんだよね。彼らがやった「ベサメ・ムーチョ」なんか聴くと、演奏とか本当にひどいんだけど、でもそこが凄く魅力的だったんです。そんな彼らが音楽シーンを変えていった。だけど、僕が今でも洋楽ポップス系のシンガーでいたい、と思っているのは、その頃の悔しさがあるのかもしれない。
そう。僕はその頃からずっと一緒に仕事をしていたピアニストの方に、「布施君、洋楽のポップスから離れてはだめだよ」とずっと言われていたんです。当時はもう歌謡曲を歌っていたけれど、コンサートでも半分は洋楽のカヴァーを歌っていました。彼はもう亡くなりましたが、10年ほど前にジャズ・ライブを開催した時も聴きにきてくれて、すごく喜んでくれた。僕のなかにはいまだにそういう思いがあるんです。
僕が所属していた渡辺プロに、中島淳さんという大先輩の歌手がいて、とても可愛がってもらったんです。中島さんは自分で「マイ・ウェイ」に日本語詞をつけて歌っていたんですが、その後お亡くなりになられて。それで僕が、中島さんのお名前を残したいという気持ちで、「愛すれど切なく」というシングルのB面に「マイ・ウェイ」を入れたんです。ただ、中島さんの書かれた詞は「今、黄昏近づく人生に…」という出だしでしたが、僕はまだその時20代だから、それはさすがに似合わないだろうと思い「今。船出が近づく人生に…」とその部分だけ変えたんです。
いろんなことをやっていたよね。彼らは「LOVE LIVE LIFE」というユニットを名乗り、そこにプラスワンで参加したのが僕。『LOVE LIVE LIFE+1』というアルバムも出しましたよ。それがね、たまたま後年、ロンドンの空港にある店で、いきなりそのアルバムの曲が流れてきて、「あれっ、これ、俺の歌だ!」と(笑)。普通にロンドンの空港でなじんでいたんですよ。イギリスって、世界中の変わった音楽をどんどん吸収していくんだ、すごいな、と思いました。ああいうセッションも楽しかったよ。
この頃、僕もちょっと天狗になっていた時期で、実のところはバカラック何するものぞ、ぐらいの気持ちでした。ロサンゼルスに着いた翌日にもうレコーディングでしたが、スタジオに着くと、ちょうどバカラックがオープンカーでやってきて、当時の奥さんだったアンジー・ディキンソンが運転していたんですよ。それですぐにレコーディングに入ったんですが、奥のいちばん小さいスタジオで、ピアノとベースとドラムだけがいて、3ピースでまず同録で1曲録りました。それが「アルフィー」でしたが、もうその1曲でノックアウトされましたよ。
1週間から10日の間ぐらいだったかな。レコーディングを終えて帰る前日、サンタモニカのホテルで、トニー・ベネットのショーをやっていたんです。そこで彼がジャズ・スタンダードの「イエスタデイズ」を歌っていて、それがもう「まだまだ早いよ、甘い甘い…」って僕に言っているように聞こえてきて…。その後、ホテルのラウンジで、軽いお疲れ様会をやったんだけど、そのラウンジでもピアノとドラムとフルートだけの演奏が流れていて、そこでフルートを吹いていたのがハービー・マン。
もうそれで完全にノックアウト。その帰国の飛行機のなかで「城ヶ島の雨」を聴いたんですが、そうしたらすごくよくてね、ああ、日本の曲なんて見向きもしなかったけど、いいものだな、と。この曲って4分の3拍子ですが、途中で拍子が変わるんです。日本にもこんな凝った歌があるんだ、こっちの方向性も進めていこうかな、と思ったぐらいです。バカラックとのレコーディング体験は、僕のひとつの転機になった出来事でした。