第15回 語り手:ポルノグラフィティ
──新たな渋谷公会堂が5月に竣工、秋に「LINE CUBE SHIBUYA」となり新装オープン、こけら落としとなります。お二人は、上京される前から渋谷公会堂の名前はご存じでした?
岡野昭仁(Vo)それは知ってました。
新藤晴一(Gt)渋公、日本青年館、中野サンプラザは知ってましたね。ロック系のアーティストがライヴをやっているホールとして。
──いつかその場所でライヴをやれたらという気持ちは?
岡野あったでしょうね。渋谷公会堂って、名前の響きがいいですしね。
──渋公で見たライヴで覚えているアーティストというと?
岡野aikoちゃん、スピッツかな。
新藤僕は覚えてないな。…入り口に時計台があったのは覚えてますね。あと、何度か名前が変わりましたよね。そのたびにお客さんもわかりにくかったんじゃないかな。
岡野初めて僕らのホール・ライヴをやったのが渋公なんです。“横G”っていうタイトルで、2000年6月(『東京ロマンスポルノVol.4「横G」』)だったんですけど、とっても気負っていた覚えがあります。
──その前に何度かライヴハウスでライヴを行っていますが、ホールでやるとなると意識は違いますか?
岡野今から考えると、すごく道筋を立ててもらっていたんですね。みんなで目標を持とう、どんどん会場を大きくしていこうっていうのがこの頃に始まって。ライヴハウスの次はホール、次はアリーナ、みたいな。その第一歩だったので、タイトルも“横G”(車のコーナーリングで体の左右にかかる圧)にしたぐらいなんです。自分たちはホールワンマンということで、“G”を感じている、プレッシャーを感じている。そういった決意のもとでのライヴだった記憶はありますね。
──“横G”という言葉は流行っていたんですか?
岡野F1の影響かな。
新藤いや、その前のツアーの途中で、みんなでレーシングカートに行ったんですよ。そこで、“横Gがすごい、首が痛い”とか言っていて、ライヴのタイトルも“横G”にしようと(笑)。
岡野そういったプレッシャーに対して今、僕らは曲がり角をすごい勢いで回っているぞ、ということだったんですね。
──カーブを過ぎて、これから加速するぞというタイミングだった?
岡野はい、まさにそうですね。
──そういうキーワードがあると、気持ちの上でも盛り上がれるというか?
岡野この時はそれがありましたね、よく覚えていますから。
新藤イベンターさんがよく昔話をしてくださるんですけど、最初のツアーでホールをやることも可能だったんです、だから予定していた会場を変えようかという話があったらしいんですよ。ちょうど「アポロ」が売れた後のツアーなので、ポンと(会場の規模を)ひとつ上にしようかと。だけど、まずはツアーをしっかり回るべきだという話もあって。その後でひとつ上に行くとか、ホールに行くうえで何が必要なのかを考えようということになったんです。当時の社長と、ホールとはどういうことかって話し合いましたね。お客さんが入るからやるんじゃなくて、2階席まであるホールで、どういう心持ちでやるべきか、という話をすごくした記憶があります。
岡野ホールに対しては、ビビっている感と、乗り越えなきゃいけないという気持ちがありました。これからたくさんのツアーをやったり、ホールに立ってしっかり表現できるアーティストになりたいという第一歩でしたから。それが渋公だったので、非常に記憶に残ってます。ライヴの光景のひとつひとつまでは覚えてないですけど、ここに賭ける気持ちはすごく覚えていますね。
──ポルノの注目度が高まっているだけに、ここでやりきらないと次が始まらないというか?
岡野僕らもスタッフにもその気持ちはありましたね。そのあとすぐ、2000年9月からホールツアーをやっていますから。