第7回 語り手:斉藤和義
斉藤和義は、この後のインタビューにもある通り、デビュー前に渋谷公会堂の向かいにあるライブハウスeggmanで音楽的な地力を蓄え、初めてのホール・コンサートを渋公で実現し、そして今年デビュー25周年ツアーの東京公演を単独ライブでは10回目となる日本武道館で開催する。1993年デビューの彼は、80年代後半に確立されて、この連載でも再三話題になっている “ライブすごろく”をしっかりとした足取りで駆け上がった一人と言えるかもしれない。もっとも、そうした記録上の話とは別に、彼はオープンなロックンロールからロマンチックなバラード、そしてとてもパーソナルな弾き語りまで多彩なスタイルでステージを展開する、タフなライブ・パフォーマーでもある。そんな彼にとっての、渋谷公会堂というホールの魅力と思い出を語ってもらった。
──まず、斉藤さんはデビュー前に渋谷公会堂の向かいのeggmanでマンスリー・ライブをやられていましたよね。
そうですね。
──あれは、デビューに向けての準備みたいなことだったんですか。
そうです。まだ曲があまりなかったので、毎月ライブをやるときに必ず新曲をやるということにして、曲を増やしていって。それからどういうバンドが合うだろう?ということで、2回くらいやったらメンバーを替えて、ということを繰り返して、結局最後にやったメンバーとデビュー後も一緒にやることになったんですよね。で、当時よく言われていたのが、eggmanでやって、目の前の渋公に行って、それから武道館というサクセス・ストーリーみたいなものがあるという話だったんですけど…。
──毎月eggmanでやってた時期、斉藤さんもそのサクセス・ストーリーのように“早く渋公へ!”と思って眺めてたりしたんですか。
早くあそこでやりたい、と思ってましたね。
──それ以前の渋公に対するイメージとしては、やっぱり「8時だョ!全員集合」の印象が強いですか。
「8時だョ!全員集合」をやってたところというイメージもありましたけど、高校生になると、LOUDNESSとか…、誰だったか思い出せないですけど、コンサートに時々行ったりもしましたよ。
──では、自分が好きな音楽のライブをやっているところとして、はっきりとしたイメージがあったわけですね。
そうですね。だから、当時は同じようなホールでは中野サンプラザや東京厚生年金会館もありましたけど、でも渋公は特別というか。だから、俺が初めて渋公でやったのは95年だったと思うんですけど、すごくうれしかったですね。
──ちなみに、高校生の頃は栃木から向かうことになるのでちょっとした遠征という感じだったと思いますが、コンサートだけ見て帰るんですか。
いや、当時はヘビメタ・キッズだったんで、原宿にヘビメタのグッズをいろいろ売ってるお店があったんですよ。
──鋲のついた皮ジャンとか?
そうそう(笑)。まず原宿に行ってそういうものを買って、それでコンサートを見て帰るというのがパターンでしたね。
──斉藤さんのライブ・ヒストリーをたどると、さっき言われたように初めての渋公が95年で、それが初めてのホール・ライブでもあったんですよね。
そうなんです。
──出演するために行った渋公というのは、お客さんとして出かけていった渋公とはやっぱり印象が違ったと思うんですが、いかがですか。
もうすでにだいぶ古くなっていたんで、“客席の椅子ももうそんなにきれいじゃないな”とか“楽屋は狭いな”、“天井が低いな”という感じで(笑)。ただ、ホールなのにそんな広い感じがしなくて、ちょうどいいなと思ったのは憶えています。すごく大きなライブハウスというか。
──憧れの場所に立って、想像以上に広く感じたと話す方もいるんですが、斉藤さんはむしろ想像していたよりも狭く感じた、と?
そうなんです。そんなにデカいわけじゃないんだな、と思いましたね。
──ということは、ライブ会場としての印象も、どちらかと言うとやりやすい感じでしたか。
そうだったと思います。意外と2階のお客さんも見えたりするし、ステージもこじんまりとした印象だったし。だから、そんなに戸惑うことはなかったですね。