最初はまったく考えていませんでした。80年代の頃って、外国のアーティストと日本のアーティストとの間には、大きな隔たりがあるとされていましたしね。でも取材時に、デイヴィッド・フォスターから影響を受けたことを語るようになり、ネットでも「ASKAとデイヴィッド・フォスターとの共通点」みたいなとこが論じられるようになってきて、いつか一緒に何かできたらいいなと、漠然と思うようになりました。競演という形ではなくて、「僕が作った曲を、いつかデイヴィッドにプロデュースしてもらえたらいいな」って。そう思い始めてからが早かったですけど(笑)。
いや、彼はデイヴィッド・フォスター&フレンズという編成でライブをやっていたので、「フレンズに加入させてくれませんか?」って言ったんですよ。そうしたら、「ここで歌ってみろ」という話になり、即興で歌いました。
デイヴィッドはとてもオープンな人ですし、そういうムードを作ってくれる人なんですよ。「さあ、ここで歌ってみろ」「NOW!」って(笑)。
前回に楽屋でやったアドリブを発展させて、ステージでやったということですね。作曲家にとっては、即興で曲を完成させることは、楽器さえあれば、そんなに難しいことではありませんから。
かなり前のツアー(2010年から2011年にかけてのツアー『ASKA CONCERT TOUR 10>>11 FACES』)で、澤近泰輔と一緒に、毎回即興で歌を作って披露するステージを30本以上やっていたので、その経験もプラスになっているかもしれません。
デイヴィッドに競演のオファーをしたら、「3月のここしか空いていない」との返事があったんですよ。当初は全国ツアーを3月からスタートする予定で組んでいたんですが、デイヴィッドと競演するチャンスなんて、おそらくもうないじゃないですか。日本人のミュージシャンをプロデュースすることはあっても、ステージを一緒にやったシンガーはいませんから。ASKA史においても、記念すべき出来事が起ころうとしているのだから、デイヴィッドとの競演をやるしかないな、ツアーは4月からにずらそうと決断しました。
内容はまったく違うものにする予定です。共通するのはバンドのメンバーくらいですね。ライブも作品ですし、ライブを記録してBlu-ray作品としてリリースした時に、似通ったものになってしまっていたら意味がないですから。
「日本のボーカリストって、こんなものか」ってデイヴィッドに思われないようにすることですね。自分の力量以上のことはできませんが、力量の中での最高値を目指します。
曲を送ってやり取りしてますが、最終的な形は今のところ未定です。彼は一から設計図を引いてライブを構築するタイプで、僕はハイライトになる曲を決めて、そこから広げていくタイプなんですよ。ライブの作り方がまったく違うので、どう擦り合わせていくかは、これからですね。
まだそんなに深く関わっていないので、いろいろ感じるのはこれからだと思います。基本的にはとても陽気で柔らかい人です。ただし、柔らかい人ほど、仕事のことになると、真逆の厳しさやストイックさを持っていたりするので、覚悟してのぞみます。もし、厳しさを経験することができたら勉強になるじゃないですか。
ある意味、覚悟しつつ、ある意味、期待しつつ(笑)。
デイヴィッドとの公演が決まった段階で、薫のプレゼンをしてみようと考えていました。デイヴィッドはフィリピンのシャリースという女性シンガーをプロデュースしたこともありますし、女性シンガーのプロデュースの上手い人なんですよ。薫の歌声は、デイヴィッドの好きな声色だろうとの判断もありました。親だから、きっかけを与えたということではありません。一人の音楽家・プロデューサーとして、身近なところに、表に出ていく力を持っているシンガーがいるのだから、プレゼンしようということでした。
薫が高校の時に、初めて彼女が歌う光景を背中越しに見たんですが、こういう歌を歌えるシンガーに成長していたんだなって驚きを感じたことがあります。子どもの頃から歌手になると決めていたらしいです。薫の成長を見ていくうちに、「いつか必ず表に出るな」って感じていました。
僕にとっては“耳の痛い曲”なんですが、伝えたいことがしっかり届いてきたのだから、表現するのに値する曲なのだと思っています。本人の中では今回の公演で歌う歌は決まっているようです。自分の持ち分はしっかりやってくれるでしょう。
僕は作品を作るときには、常にワールドワイドでなければダメだと考えているんですよ。日本語の歌詞というワールドワイドになりにくい要素もありますが、意識や姿勢としては、ワールドワイドであるべきだなって。デイヴィッドと競演することで、その意識はさらに強くなるでしょう。欧米のアーティストに楽曲を提供してみたいという気持ちもあります。未来につながるコンサートにしたいですね。