──山下洋輔トリオの歴代メンバーが、50周年で一同に会するわけですけども。山下洋輔トリオを始めた頃にやろうとしていたことというのは、どういうものだったのでしょうか。
1969年に、改めて始めて……というのは、その1年半前から私、病気で演奏できませんで、休んでいて。それで、改めて始める時に、休む前のメンバーで集まったんですよ。でも、今自分がやるにはちょっと違うなあ、もっと強いものがほしい、激しいものがほしい、というふうに、私の中ではなって。それで、ちょうどいろいろなことが起きましてね。ベーシストが就職が決まってやめちゃった、とか。それで、ベースをどうしようっていう時に、森山(威男)が「いらないんじゃないか?」なんて、すごいことを言い出して。それで、話しているうちに、森山、中村誠一、僕の3人で──僕が言い出したんですが、「思いっきり勝手にやってみようよ」と。
──その話は、いろいろなところで語り継がれていますが──。
事実なんです。その時に一応、手本がありましてね。50年代からやっていた、ピアノのセシル・テイラー。拳打ち、肘打ちをやっていた方です。それからオーネット・コールマン。この人たちの音が、60年代にはもう、ジャズ喫茶に行けば聴けたんですが、その頃の僕というのは、「こういうむちゃくちゃな音楽はダメだ」と。近寄ってはいかんという、むしろ逆の考えで。ずっと正しいミュージシャンであろうとしていたんですが(笑)、病気のことがあり、新しく始めた時でもあり、もっともっと激しい、速い、すごい表現の音がほしいなと思って、「みんなでやってみたらどうだろう」と言い出したんですね。その背景には、近寄ってはいかんと思っていた音楽を、メンバーみんな聴いていた、という経験があるんですよ。
──ああ、どういうものかは知っていた。
特に、1966年には、ジョン・コルトレーンが日本で最初で最後のコンサートをやったんです。あのコルトレーンが、完全にフリージャズだった。「なんでコルトレーンがこうなっちゃうんだよ?」って、みんなびっくりした。だから、その時「みんなでめちゃくちゃやってみようよ」って言った背景には、そういったいろんな経験や、音を聴いてきた積み重ねがあった。
──やってみていかがでした?
リハーサルで、おもしろいものができちゃったんですよ。「これ、おもしろいんじゃないの? 誰もやってないよね」っていう手応えがありましてね。3人でお互いに、おもしろくなっちゃったんです。だから、「誰がなんと言おうとこれをやろうね」ってなれたのは、幸いでした。
──当時の日本のジャズの環境から考えたら、わけのわからないことをやっている、というふうに見えていた可能性は──。
もちろんです(笑)。僕はその音でピット・イン(新宿ピット・イン)に出たい、と言って──ピット・インには「NEW JAZZ HALL」っていう、フリージャズの人たちのライブハウスもあったんですが、僕はそっちは選ばずに、みんながやっている場所でやりたかった。特別なものではない、これを他のすべてのジャズ・バンドと聴き比べて判断してくれ、っていう気持ちがありましたので。それでピット・インに出たんですね。最初はお客さんもそうは集まらず。ミュージシャンの先輩たちからは「洋輔、どうなっちゃんだ? おまえは」というような反応がほとんどでしたね。急に変わりましたからね。でも、今までやってきたことはやらない、ジャズの決まりも忘れる、そこでやりたいことだけをやってみたらどうなるか、っていう、それが楽しくなっちゃったんですよ。
──今思うと、自分には潜在的にこういう気持ちがあったから、そういう方向に走ったんだな、と気づくことはあります?
今までやってきたことをやるなら、僕よりうまい人はたくさんいる、同じことをやってたんじゃダメだっていう。何か自分独自のものがほしかったんでしょうね。「これが俺たちの音楽だよ」って言いたかったんですね。