ギターロック、パンク、ロックンロールからファンク、ソウルまでを網羅したカラフルな音楽性、エッジとポップを兼ね備えたボーカル、そして、エンターテインメント性に溢れたステージによって支持を集め続ける中島卓偉が、デビュー20周年を記念したツアーTAKUI NAKAJIMA LIVE TOUR 2019 20th ANNIVERSARY REQUEST OF BEST SEASON2」を開催。「誰よりも音楽が好きで、追求し続けた20年でした」という中島に、20周年に対する思い、ツアーへの意気込みなどについて語ってもらった。
──20周年を迎えた、いまの率直な気持ちを教えてもらえますか?
自分の気持ちというよりも、周りの人たちですよね。数年前から“あと○年で20周年ですね。楽しみにしてます”と言われることが多かったし、そういう言葉によって“そういう周期が来てるんだな”と認識してきたので。
──男性ソロシンガーとして20年活動を続けるのは並大抵ではないと思いますが、デビューした頃、将来的なビジョンは持っていたんですが?
自分が何を考えていたのかよく思い出せないところもあるんですけど(笑)、福岡から出て来て“3年やってダメだったら帰ろう”と思ってた気がしますね。デビュー直前までバンドをやっていて、そのバンドが解散して。でも、曲は書けたし、ソロとしてやっていこうと決めたのが98年。99年の10月にデビューできたんですが、そろそろCDも売れなくなってきてた時期で、そういうところに夢は抱いてなかったんですよ。それよりも<自分はとにかく音楽が好きなんだ>という気持ちが強かったんですよね。同世代のミュージシャンを見まわしても、<自分がいちばん音楽が好きだ>という自覚があったし、さらにそれを突き詰めたいなと。将来的なビジョンみたいなものはなくて、音楽に対する思いを貫きたいと思ってたんじゃないかな。
──めちゃくちゃピュアだし、情熱的ですね。
確かに情熱はあったと思います。とにかく<曲を書きたい、歌詞を書きたい、アレンジを勉強したい>という感じでしたから。それを追求するのが楽しかったし、周りのことはまったく気にしてなかったですね。
──中島さんの楽曲を改めて聴いてみると、時期によって変化はありつつも、一貫した作家性を感じることができて。良い意味で流行に左右されていないというか。
“普遍的な曲を作りたい”というこだわりがあったんですよね。“若いうちにしか書けない歌がある”という言い方もあるけど、そういうものって、年齢を重ねると歌えなくなると思うんですよ。本気で普遍的なもの目指しながら作っていけば、一生歌えるだろうし、僕はそういうものを求めてきたんですよね。ザ・ビートルズ、レッド・ツェッペリンもそうですけど、時代を超える名曲、名盤は確実に存在するわけで。僕自身、流行や時代性よりも、自分が納得できるもの、普遍性があるものを作ってきたつもりなんです。
──実際、初期の楽曲もライブで歌い続けてますからね。
そうですね。昔の曲であっても、“これは良くないな”と思うことはないので。ただ、古い曲も新しい曲もまんべんなく歌ってきたので、ファンにとってはありがたみがないかも(笑)。一時期やらなくなったけど、久しぶりに古い曲をやると、盛り上がりやすいじゃないですか。僕の場合はそれがないので。
──聴きたい曲をやってくれるのは、純粋に嬉しいと思いますけどね。
そうだといいですね。自分自身のプライドでもあるんですよ、それは。“どの時期の曲もいつだって歌うんだ”っていう。自分が好きなアーティストもそうなんですよ。常に新曲を出しながら、以前の曲もライブでやっている人に惹かれるんですよね、やっぱり。
──しっかりポリシーを貫いた活動を続けてきた、と。間違ってなかったという実感もありますか?
いやいや、そんなことはないですよ(笑)。失敗もたくさんあるし、いろいろな変化を繰り返しているので。変わらないために変わり続けることと、ただ同じことを続けるのではぜんぜん意味が違うし、僕は前者でいたんですよね。変わり続ける人はリスクを取っているわけで、責任感、冒険心が強いんだと思うんです。デヴィッド・ボウイはその最たる人ですよね。音楽性、ファッションを含めて、あれほど変化し続けていながら成功を収めたアーティストは、他にいない思うので。比べるわけではないですが、僕の20年も変化の連続だったんじゃないかなと。当然、批判もありましたけどね。ファンと自分の音楽論が違うことに気付くのが、だいぶ遅かったんで(笑)。
──音楽のスタイルが変わるたびに賛否両論があった?
そうですね。そのうちに、それを押し付けるのは違うんだなってわかってきて…。だからと言って、ファンが望むことだけをやるのは違うというか、“他人に合わせて音楽をやるのか?”ということですから。作ってはぶち壊し、作ってはぶち壊すというサイクルを続けたかったし、実際にそうしてきた20年なんですよ。賛否両論があるというのも、それまでの路線から脱線したから起きるわけじゃないですか。大事なのは、変化を繰り返しながら、お互いに成長できる関係を作ることなので。
──この20年のなかで、音楽的なターニングポイントを挙げるとすると?
そうですね…。デビューしてしばらくは、プロデューサーがついていて、自分の思うように出来ないジレンマや葛藤もあったんです、正直言って。でも、30代になった頃に“音楽的な知識を得られた”という自信も出て来たし、周りのスタッフからも“自分でやったほうがいいよ”と言われるようになって。セルフプロデュースで“最高だ”と思えるアルバムを作れたし、それをファンも喜んでくれて。20代よりも、30代の10年間のほうが楽しかったですね、音楽をやっていて。