というわけで、2018年にフルカワユタカが残した作品は、誰かと一緒にやる、それもプロデュースとか曲提供とかじゃなくてがっぷりイーブンで組んで作った3曲になった。なぜそうしたのかということ、組んだ3人のこと、その結果生まれた曲のこと、そしてその3曲を携えて行う2019年1月~4月のツアーのことについて、フルカワユタカにみっちり訊いた。
2年ぐらい、やりようがなくなった
はい。
そうです。もうむちゃくちゃさかのぼると、前は「人とやらない」ということが自分の哲学というか、それが自分の芯にあって。理由は、人とやるとブレる、濁っちゃう、そうじゃない純粋なフルカワユタカを出したいと。まあそれも、いろんなことの壁にぶつかって、その結果そういうふうに決めた、っていうところも多分にあるんですけど。
それで突き詰めて行って、最後は自分でレック・ミックス(レコーディングのミックス作業)とか、ライブの音作りまで自分でやるところまで行くんだけど。それのとどのつまりが、DOPING PANDAの解散だったと思うんですよ。行き詰まって解散した理由が、その哲学にあった、とは思うんですよね。
でも、そこでも多少の希望があったんですね。「本当にひとりになった方が、もっとやれるんじゃないか、俺」みたいな自惚れが。で、本当の壁は……1枚目のソロを出して、ツアーを回って、それがうまく行かなかったことの方が、実は解散以上にシビアだったんですよ。「ひとりじゃなかったからうまくいかなかったんじゃないか、バンドだったからじゃないか」という言い訳に、「それは違う」という答えが出てしまって。そっから僕、2年ぐらい、やりようがなくなるんです。
そう。ほんとに年間2本ぐらいしかライブしない時期が、2年ぐらい続いて……だいぶさかのぼった話をしてますね、これ(笑)。
じゃあ……それで、きっかけになったのが──これ、いろんなインタビューで言った話だけど──Base Ball Bearのサポートをやったことですね。そこで人前で演奏することの楽しさを思い出して。その直後に市川さん(LOW IQ 01)のバンドにも誘われるようになって、2017年に市川さんとツアーを回るようになって。
そういう中で、人とやらざるを得ない状況になった、しかもそれが自分もイヤじゃない、というか。まずBase Ball Bearで、バンドと一緒にやるという疑似体験をしたことで、人とやることの楽しさが甦ってきた……それは解散した頃じゃなくて。解散前はほとんど俺が独断で決めてたから。
the band apartに憧れがあった
そうです。その頃の楽しさが甦った2017年があって、それで次のサード・アルバムのプロデュースを、インディーズの頃以来久しぶりに、TGMXさんにお願いしたんですね。人とやって来なかった自分が人と一緒にやると、当然ぶつかる部分もあるし、いろんなことがあったんですけど……どう考えてもその方がいいものができるんですよね。DOPING PANDAの時は、人とやらないってことで、結果が出たかというと……自分のやりたいことができてる気はしてたけど、客観的な結果は一回も出なかったんですよ。
とか、それがツアーにつながったりとか。でも、主観的な結果は出てるから、「今回でもう一歩理想に近づいた」みたいなことを思ってたけど。でも、いざ人と一緒にやると、たとえばスタッフとか、「すごくいいアルバムだ」とか「いい曲だ、これをリードにしたい」とか、前のめりで言ってくれることが増えて。どう考えても人とやった方がいいな、自分の見えてないところのよさとかも出るな、と。楽曲に対してネガティブな評価をされると、ちょっとウッてなることもあるんだけど。でも、そういうイヤな部分、ウッてなる部分も含めて、総じて心地いいんですね。
それがあったんで、次はもっと踏み込んで、楽曲を一緒に作ってみよう、と思ったのが始まり。で、最初にそれをやるのは、まあちゃん(原昌和)しかいないな、と。それは「念願」という言葉が、ほんとに正しいくらい。
最初に彼らのデモテープを聴いた時から、もう衝撃だったんで。2000年ぐらいですかね。当時、メロコア、パンクという、本来自分にないものを自分がやっている限界を感じていた時期に、the band apartのデモテープを聴いて「すごいな!」と。もうまさに俺がやりたかったこと、これを俺がやってたらどんだけうれしいだろう、って──。
もう衝撃を受けましたよ。それで(新宿)ACBにライブ観に行って……どうもベースの奴がすごいらしい、ベースが曲を書いている、ときいて。「そうなの? あの繊細なコードワークとアレンジを? どんな奴だろう」と思ったら、あれが出て来たんですよ(笑)。もう衝撃で。その時から僕ん中では変わってないんです、まあちゃんの評価は。
で、そのあと知るんですけど、人間もすさまじいじゃないですか(笑)。話もむちゃくちゃおもしろいし、書くものもむちゃくちゃおもしろいんですよ。特に最初の頃は憧れがありました、すごく。AIR JAMのカウンターにちゃんとなってたから、the band apartは。
俺たちはなれなかった、っていう悔しさがあって。しかも音楽がかっこよかったんですよ。たとえば自分の同じ世代のバンドが売れてたり、自分たちよりでかいハコを埋めてると、ほんとに悔しかったり、「コケろ!」って思ってた時期とかありましたよ。でもバンアパに関しては、うれしかったんです。両国国技館が埋まったとか、幕張メッセイベントホールでやってるとか、「ほら見たことか!」と思ってたというか。それは今もそうかもしれないな。そういうバンド、僕にとってはバンアパだけなんですよね。
最初にデモを送りました、何曲か。どのくらいの温度で始めればいいかわかんなかったんで、最初は弾き語りにベース・ラインぐらい付けたものを送って。そしたらその中の1曲がいいってリアクションが返って来て、「じゃあ会って作ろうか」って、the band apartのスタジオに行って、一緒にアレンジをやった、っていう感じですかね。
まあちゃんが選んだ曲が、けっこう悩んで、メロディとコードを、ああでもないこうでもないって考えて作った曲じゃなかったんですよ。帰り道に鼻歌で思いついて「あ、これいいな」って、家に着いてバーッて弾き語りして録ったやつだったんですよ。それはほんとにうれしかったです。考えないで作った曲の方がいいじゃないですか、作り手としては。内から出て来たものだから。
大変でしたよ。まあちゃんの作り方に乗っかる気で行ったから、覚悟はしてましたけど……最初はまず、コードを付け直したのかな。僕が付けてたコードを、全部付け直していくんですよ、ああいうふうに。ちょっと弾いて、録って、みたいな。それを見ながら、「ちょっとそこはアバンギャルドすぎる」とか、僕が時々口をはさむぐらいの感じでしたね。
でも、まあちゃんがベース・ラインを付け始めると、もう入っていけなくなるんですよ。ちょっと弾いて、やめて、「ああ! 違う! ダメだ!」とか言いながら、ずーっとひとりの世界でやってるんですよ。すごい集中力で4時間も5時間も。それを生で見れて参考になりました。それを盗んでやろうと思ってたし。
はい。もちろんね……勇太もハヤシくんもそうですけど、メイン・ソングライターでバンドの顔なんで、それは大変ですよ、一緒に何か作るのは。プロデューサーじゃないから、芸術家なんだな、そこは譲れないんだろうな、って思うこともあったし。その大変さはあったけど、それも含めてそこに俺がのっかる、っていうのが今回の目的だったから。それをやったおかげで得るものは、もう山ほどありましたね。