第6回 語り手:門池三則(株式会社バッド・ミュージック 代表取締役 / 一般社団法人 日本音楽制作者連盟 理事長)
門池三則さんは、まずバッド・ミュージックの代表である。JUN SKY WALKER(S)に始まって、Mr.Children、the pillows、ミッシェルガン・エレファントなどなど、芯の通った個性を持つバンドを次々と世に送り出してきた。現在は、音楽制作者連盟という、音楽事務所の団体の理事長も務められていて、音楽シーン全体の状況を冷静に広く見渡すことも求められる立場にあると言っていいだろう。が、今回ご登場いただいたのは、そうした肩書き以前に、最初はミュージシャンとして、そしてライブハウスのブッキング・マネージャーとして、さらにはバンドのマネージャーとして、と立場は変わっても、つねにライブの現場に身を置き、そこからライブ・シーンの流れをみつめてきた方だからだ。
ここでは、渋谷のライブハウス「La.mama(ラママ)」のブッキング・マネージャーになったところから始まるキャリアを振り返っていただきながら、そのなかで立ち会ってきた様々なバンドの渋公ライブに関して、そして新しい渋公をはじめとする音楽ホールのこれからについて、たっぷりと語ってもらった。
ここでは、渋谷のライブハウス「La.mama(ラママ)」のブッキング・マネージャーになったところから始まるキャリアを振り返っていただきながら、そのなかで立ち会ってきた様々なバンドの渋公ライブに関して、そして新しい渋公をはじめとする音楽ホールのこれからについて、たっぷりと語ってもらった。
──渋谷La.mamaの開店が1982年ですよね。
そうですね。僕自身は、東京に来て間もなくで、元住吉の弟のアパートに転がり込んで、そこから通ってました。道玄坂という名前は大阪にいる頃から知っていて、というのも僕はドラムをやってたから、大阪・日本橋のヤマハと渋谷・道玄坂のヤマハというのが2大レッスン場みたいに言われていたのをよく聞いてたんです。それで、La.mamaというか、その前のショーボートにブッキングの仕事で行くことになるわけですけど、渋谷のハチ公口から行くとほぼ正面が道玄坂で、“これが道玄坂かあ、すごいなあ”と。そのちょうど90度くらい右手に、パルコなどがある公園通りですよね。“おしゃれだなあ”って。大阪にいた頃から、新宿PIT INNや高円寺JIROKICHIにはジャズやフュージョンのライブをよく見に来てたんですけど、その流れで公園通りの入り口のところにあった渋谷ジァン・ジァンにも行ってました。ただ、その坂の上に渋谷公会堂があるということは、当時は知りませんでした(笑)。
──(笑)、その80年代半ば頃、La.mamaに集まってくるバンドは、どんな音楽をやっていたんですか。
当時はパンク/ニューウェイブと、ハードロック、それに後のビジュアル系につながるようなバンドもいました。僕自身は、ハードロックも通ってはいますけどあまり興味がなくて、それよりも東京に出てきてパンク/ニューウェイブのバンドにすごい衝撃を受けたんです。“歌は上手くないし、演奏も上手くないけど、なんじゃこりゃ!”と思ったんですよ。オリジナリティがすごい!と思って。石井聰互さんの「爆裂都市」のプレ試写会的なイベントもLa.mamaでやりましたから。それで、東京ロッカーズの次の世代みたいなバンドをどんどんブッキングしていました。
──そういうなかで、JUN SKY WALKER(S)は高校生だったということですが、やはり高校生のバンドは珍しかったんですか。
僕が気に入ったバンドが2、3いたかな。JUN SKY WALKER(S)も昼の部でしたけどね。
──ボーカルの宮田和弥さんの過去のインタビューを読むと、La.mamaに出ていたものの、あまりお客さんが集まらなかったのでホコ天に出ていくことにしたということだったようですが、実際のところLa.mamaでの反応はどうだったですか。
ウ~ン、当時の状況自体が、まだ「バンドやろうぜ」みたいな雑誌やTBSの「イカ天」の前で、ライブハウスという言葉もあまり知られていない時代でしたからね。そういうなかで、彼らは高校の友達や先輩、後輩が来て、2バンドで100人くらい集めてたんです。やがて夜の部にも出るようになってきて、それでデモテープを作ろうという話になりました。レコード会社に持って行ったり、当時はインディーズのカセットを売るお店もあったから、そういうところに置いてもらおうということで。それで、夜中にLa.mamaでレコーディングしたんですよ。20分テープにA面2曲、B面2曲の4曲入りかな。その2作目を作った頃に、NHKの前の並木通りでフリーマーケットをやってて、それを仕切ってる人と宮田が知り合いで、「ライブでもやってみる?」という話が出たんです。その並木通りを抜けたところのホコ天ではダンス関係の人たちがいたじゃないですか。
──タケノコ族とか一世風靡セピアの人たちとか。
そうそう。「だから、こっちはライブを」ってことで。それで、ライブをやるときにカセットをダビングして10本ほど持って行ったら、あっという間に売り切れちゃうわけです。1ヶ月後くらいにまたフリーマーケットがあって、そこでまたライブやってカセットを売ったら、すぐ売り切れちゃって、「今度は向こうに行ってみないか」という話になって、それでホコ天に行くんです。
──そういうやり方で“ジュンスカをブレイクさせるぞ!”と考えたんですか。
いやいや。ただ、昔の渋谷にあった屋根裏からRCサクセションや米米CLUBが「こうやって、大きくなっていきました」というのを見てるわけですよね。人気が出ていくのに従ってハコのキャパがどういうふうに上がっていくのかというのを。La.mamaが最初だったら、その次にLIVE INNがキャパは500とか600で、次は日本青年館、それから渋谷公会堂、その先に武道館っていう。それを、JUN SKY WALKER(S)というバンドにおいてどういうふうに実現するかということに協力する、という感じですよ。
──協力、ですか?
だって、その頃はまだ僕はマネージャーでもなんでもないから。面白いことを何かやりたいなと思ってただけだから。
──ホコ天というのは、野外だし、ステージもないし、音楽に興味がある人が集まっているわけでもないですが、そこで彼らがウケたのは演奏に力があったからでしょうか。
多分、そうでしょ。あそこに集まってた人というのは、タケノコ族とかもいたけど、でも基本的には引っ込み思案の人が多かったと思うんです。でも、宮田にしても純太にしてもライブハウスではもう何回もやってたし、そもそもステージで表現するということについては、彼らは長けてましたから。それに、その頃の彼らのファッションは、メジャー・デビューしてからとはだいぶ違ってて、例えば宮田は忌野清志郎さんが大好きだから、清志郎さんみたいなメイクをしてたし、ベースの伊藤も目張り入れてたかな。純太なんてモヒカンみたいに髪を立ててるし、目立つことはやってましたよね。ライブハウスでいろんなバンドとコミュニケーションがあるから、そこからの影響もあったし。ジュンスカのいちばん近かった友達バンドはZIGGYですよ。La.mamaの出身バンドで言えば、最初にメジャー・デビューしたのがZIGGYで、その次がジュンスカです。森重(樹一)くんはホコ天に見に来たりしてましたよ。
──ジュンスカはそこで注目を集めてメジャー・デビューしてしまうわけですが、ライブではいったんライブハウスにもどるんですよね。
メジャーに行く前に、宝島のキャプテンレコードから6曲入りのミニアルバムを出すんですが、それまでにカセットテープを4本くらい出してて、それぞれもう何千本と売れてたんですよ。だから、メジャー・デビュー前にLIVE INNもやって、それでメジャー・デビューの記念ライブが渋公じゃないですかね。
──門池さんが関わったバンドがホールでやるのは、ジュンスカの渋公が初めてですか。
そうです。その日が土曜日で、翌日の日曜日にまたホコ天をやったんです。「明日どこかでやるかもよ」みたいな感じで、渋公の当日に発表して。日曜日は、僕ら朝から場所取りしてましたよ。だから、僕のなかでは渋公の印象より、翌日のホコ天の印象のほうが強いです。
──逆に言えば、初めての渋公には絶対の自信があったということですか。
そうそう。渋公の前に、ラモーンズの前座を有明MZAでやってるんです。そのときは、客が「帰れ!帰れ!」と言ってて、メンバーが「速いのばかりやりますか?」と聞いてきたから、「バカ野郎!バラードを1曲入れないとダメだ」と言って、実際バラードをやったら、お客さんは「いいじゃん、コイツら」という感じになったんですよ。
──そういう経験もしているから、いきなりホールでも大丈夫だろう、と?
本数もたくさんやってたからね。
──ただ、キャパ300のところをいくらたくさんやっていても、いきなり2200のホールに行くのは大変、と普通は考えませんか。
だから、多分メンバーは緊張したと思うんですよ。でも、ホコ天ってステージという枠がなくて、お客さんのそばまで一気に行ける状況じゃないですか。そういう感覚はあそこで培われたかもしれないですね。だから、渋公のときには「ホコ天みたいにやればいいんじゃないの」と、言ったと思いますよ。僕が気にしていたのはチケットの売れ行きだけで(笑)。ただ、いまだったら、もうちょっときれいにやらなきゃいけなかったかもしれないですね。ホコ天の延長という話をしたから、「ダメだよ」と言われててもステージから降りたかもしれない。そういうことをやってしまうところが宮田にはあるからね(笑)。
──(笑)、そういう点も含めて、当時のジュンスカのライブはお客さんを引きつける力が本当に大きかったと思うんですが、彼らと比較すると、その後に門池さんが手がけられたMr.Childrenはライブのパワーよりも楽曲の魅力のほうがデビュー当初は先行していたように僕は感じていました。が、彼らは東京では最初にLa.mamaからライブを始めて、92年のデビュー後、初のツアーで新宿パワー・ステーション、次の次のツアーでパワステ2デイズ、そして93年のツアーではもう渋公に進出します。そのタイミングの見極めは、どういう判断だったんですか。
ツアーをまわるじゃないですか。当時は、東京の動員が10あったら、大阪が6で名古屋が5、福岡が2か1くらいだったんです。割合的に見れば。ただ、上り調子のときには地方の割合がちょっと多くなるので、その増え方のようすを見てればわかるんです。それに、ライブの内容の部分でもキーボードをサポートで入れたでしょ。そういうこともちゃんとやってましたから。
──門池さんもさっき言われたように、80年代後半にはバンドが出世していく道筋のようなものが出来上がっていたわけですが、パワステができたことでその段階の踏み方に変化が生まれたという見方もあります。それは東京での展開だけを見た捉え方でしょうか。
Mr.ChildrenはちょうどアナログからCDに切り替わったタイミングで出てきたバンドだから、そこで数字の読み方がちょっと変わったということがあると思うんです。わかりやすく言えば、アナログで100万枚というのはほとんどなかったけど、CDになってどんどんミリオンが出るようになったでしょ。そういうことがある一方で、CDのセールスがすごく大きいのに武道館がいっぱいにならないというバンドも出てきた。それは、やっぱりライブをしっかりやってないからですよ。ウチのバンドはライブをしっかり積み重ねて種を蒔いていたから、CDが売れるとライブの動員が一気に伸びたということもあったと思います。