Chageのふるさとの思い出
編集部:ふるさとエピソードをおうかがいするコーナーなのですが、Chageさんは「NとLの野球帽」という曲そのもので、ふるさと讃歌を歌っています。
今年の6月2日に、初めて自分の故郷、小倉(アルモニーサンク北九州 ソレイユホール)で「NとLの野球帽」を歌ったんですよ。以前、CHAGE and ASKAで小倉でライブをやったこともあるんですが、その時点ではまだこの曲はできてなくて。MULTI MAXでも小倉でライブをやったことがあるんですが、その時もやらなくて。やっと故郷でこの曲を歌うことができて、感慨深かったですね。特別な思いがこみあげながら歌っていたことがお客さんにも伝わったみたいで、特別な夜になった。しかも場所が昔で言う九州厚生年金会館で、僕が住んでいた町のすぐ近くで。町名を見ただけですぐにわかりましたから。今回、一泊させてもらって、ライブの翌日、自分が生まれ育った町名をたどってみたら、やはり会場のすぐ目と鼻の先でした。
編集部:小倉には何歳から何歳まで住んでいたんですか?
生まれてから10歳までいました。もう50年近くたっているので、町全体の風景は変わっているんですが、節々に名残が残っていて、その節々を体が覚えていた。スススッと歩いていったら、自分の家があった路地裏までたどり着いて、その一角だけ、取り残されたように残っていて、あまりにも変わってないのにびっくりしました。
編集部:そこはどんな風景なんですか?
まさに「NとLの野球帽」の世界ですよね。工場があって、煙突があって。僕の記憶の中にあるノスタルジックな風景がそのままそこにあった。石炭産業が栄えていた時代の最後くらいで、その後、さびれてしまったんですが、僕が子どものころは日本経済を支えていた工場の町でしたから、活気があって、大人たちがかっこ良かったんですよ。実際にその頃の工場は残っていましたし、大人たちが毎朝、工場に向かっていた通路も残っていました。警備員の人に聞いたら、「その頃は2000人は従業員がいました」って。当時の子どもだった自分はその工場から帰ってくる大人たちを眺めながら、その横で野球をしていたという。今では川がすっかりきれいになっちゃって、驚きました。当時は工場の廃液が流れ込んでいるので、油が浮いているんですよ。でもそれが七色の虹のようで、匂いさえ我慢すれば、それはそれできれいな景色でもあって。今では魚まで泳いでいて、うれしいような、寂しいような複雑な心境でした。
編集部:町を歩いて、思い出したことはありましたか?
当時、親父が僕を連れ回してくれたなってことはすごく思い出しましたね。町へ連れていってくれてたのはお袋じゃなくて、親父だったんですよ。お袋は家で留守番ばっかりしてたなって思い出しました。親父は料理人だったんで、不規則な生活を送っていて、子どもと接する時間がほとんどなくて、日曜日の限られた時間だけ、一緒に遊んでもらえたんですよ。だから日曜日には繁華街の路地裏に行ったり、親父が仕入れにいく市場に行ったり、いろんなところを連れ回されたのを覚えています。小倉の町を歩くのは不思議な体験でした。10代を過ごした博多のことはいっぱい語れるんですよ。中学高校大学と過ごした場所だし、音楽ともリンクしているので。でも今回、自分の中でいろんなことがつながっていった。59歳でやっと小倉で「NとLの野球帽」を歌えたことは自分にとっても大きかったですね。僕にとっては生まれ故郷は小倉なんだなということも実感しました。
とても楽しそうに小倉のお話をして下さった、Chageさんの笑顔が印象的でした。
Chageさん、貴重なお話をありがとうございました。
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