KAORI PARADISE 2023
2023年10月15日(日)関内ホール[神奈川]
定刻、会場が暗転し、ステージ上の照明が灯ると、まずこれから始まるコンサートの主人公のプロフィールを紹介するアナウンスが流れる。それを要約すると、「普通の主婦の時間を過ごし、普通に子育てを経験したのだけれど、彼女が特別なのはなんでもやりたがるミュージシャンだということ」という話になるのだけれど、その主人公をすでによく知っている観客ならば「なんでもやりたがるミュージシャン」というフレーズにクスリと笑ったかもしれない。確かに、音楽に関して彼女はすごく貪欲みたいだし、それを平たく「なんでもやりたがる」と言えば、まさに自分がよく知っている、元気いっぱいの香ちゃんのイメージと重なるなあ、というような意味で。しかし、実際にステージが始まってみると、それは「なんでもやりたがる」なんていう、ちょっとそそっかしい感じさえするフレーズだけではまとめきれない、とても音楽的で、しかし決してマニアックな世界に入り込まないから楽しく時間を過ごせる、味わい深い音楽ショーを体験することになった。
全編弾き語りだから、鳴っている音は彼女の声とピアノ、あるいは彼女の声とギターのみだ。ということは、かなりしっとりとした、あるいは穏やかな演奏を聴き入るコンサートを想像するかもしれないし、確かにそういうシーンもあるけれど、それだけに終わらないのは彼女の歌がとても熱くて濃いから。この日のセット・リストの大半を占めたプリンセス プリンセス時代の曲たちも、バンド・サウンドが一度解体され、弾き語り仕様に組み上げ直されたアレンジにおいては相対的にボーカルの比重が高まるのは自然なことだが、バンド・サウンドで聴くのと違って聴こえるのは楽器の数が少ないというような物量的な違いとは別に、アレンジの変化に伴って歌が描き出す表情も変化しているからだろう。あんなに何度も聴いた、あるいはあんなに何度も歌った「M」や「Diamonds<ダイアモンド>」でさえも、新鮮な胸の高鳴りを感じる。
加えて、よく見知ったはずの楽曲がそれぞれに印象的なのは曲順の効果もあるだろうし、音楽以外の要素、つまりはMCの魅力に負うところも大きい。このツアーの公演地には、彼女自身もあまり馴染みがない場所も含まれているので、いつも前日に現地入りして、その土地の地酒を味わうことにしているそうで、この日は公演地が横浜・関内だったから、神奈川県の地酒が楽しめる店を予約し、3種類の地酒を味わったという。しかも、その席を共にしたのが神奈川県在住のプリプリのメンバー、富田京子と今野登茂子だったという話までを、フランクに、しかし丁寧に聞かせて、客席の気持ちをほぐしたりするのだ。あるいは、ギターの弾き語りに使うルーパーという機材を、実演を交えながら紹介し、そしてその機材を使った演奏へと観客の気持ちを滑り込ませていく。その展開は、よく計算されていると言ってしまうとあざとく聞こえるかもしれないが、しかし確かに観客の気持ちを音楽と同期させるためにしっかり考えられていることがわかる。それでも、その話に入り込み、そして音楽へと導かれてしまうのは、繰り返しになるが、彼女の話がフランクで、しかも丁寧だからだろう。そして、そのMCでも、もちろん演奏でも、彼女のなかで伝えようとしていることがすごく明確だから、こちらの気持ちの深いところにすんなり馴染んでしまうのだろうと感じる。この一年はライブ三昧と言っていいような活動が続いているし、11月末には久々のバンド・ツアーも始まるが、弾き語りというライブ形式を彼女はすっかり手の内に入れたようだ。
この弾き語りツアーは岸谷自身のプライベート・ルームに招いて演奏を聴かせるイメージだという、そのイメージの通り、親密な時間のなかで楽曲たちが、そして岸谷の存在がより身近に感じられる一夜だった。