番組スタートから37年にして初めての開催となるこのイベントは、石野卓球、DJ KAORI、TOWA TEI、屋敷豪太の4人のDJたちが、同番組が始まった時代であり、日本でもっとも洋楽が広く聴かれた時代でもある80年代の曲を中心にプレイする、という趣旨。番組内の人気コーナー『スター・オブ・ザ・ウィーク』を小林克也が再現する、という企画もあるという。小林克也に訊いた。
僕が今年喜寿で、番組サイドから「せっかくだから何かやりましょう」という提案があって。たとえばこの間は、番組のオフィシャルCDを発売したりとか、そういうことはやって来たんですけどね。だから、その一環みたいなものなんだけど、ただ、お客さんに参加してもらってイベントとして行うのは、初めてなので。今まで顔を見ることができなかったお客さんが集まって来る、というのは、僕にとっては特別なものがあります。お客さんに会える、というのがいちばんの楽しみですね。
イーグルスで踊る時代
でも、豪太さんもちょっと重なってるそうです。まあ、クラブ文化っていうのは、70年代のディスコの頃からずっとあるものですよね。僕もそこの出身で……1971年の終わりから、1976年までの5年間ぐらい、ディスコで皿回しをしていたんです。ただ、当時のDJは、今とはテイストが違うんですよね。その頃から80年代くらいまでは、「ディスコ・クラブ向けの音楽」っていうカテゴリー分けはなくて。とにかくダンサブルな音楽だったらなんでもいい、踊らせるのはDJの腕、という。選曲も、今なら考えられないような……たとえばママス&パパスの「カリフォルニア・ドリーミング」だとか、イーグルスだとかも平気でかかるような。大阪のディスコでは、みんな山下達郎で踊っていたし。ノンジャンルだったんですね、本当に。
はい、そう考えてますね。
それは、打ち合わせがまだだからわかんないですけど、今のところは……僕は、さっき言ったように、昔やっていたから、DJも、やろうと思えばできるんですけど。ただ、僕らの時は──。
そう、しゃべりながらDJをやる。だから、今のDJとは違いますよね。
そうですか。まあちょこっと愛嬌でやってみても、おもしろいかもな、とは思ってますけどね。
山下達郎『COME ALONG』秘話
(笑)。いや、でもあの頃はね、ほんとにノンジャンルで……その頃、1976年頃ね、山下達郎がまだあんまり売れてなかった時の、『COME ALONG』っていう作品があるんですけど。『RIDE ON TIME』でドカンと売れる直前。
あれは当時のディスコのスタイルで、ラジオの放送に近いような感じでやってみたらどうだろう? っていうアイディアだったんですね。当時、大阪にアメリカ村ができて、そこにディスコが乱立して。ほんとにみんな、イーグルスで踊るんですよ。山下達郎でも踊る。で、おもしろかったのが、同じ山下達郎で踊るのでも、ディスコによって曲の好みが全然違うんです。それに目をつけて、山下達郎が当時所属していたRCAレコードのスタッフが……その頃僕は、東芝だとかビクターだとかの、ディスコ音楽に強いレコード会社の、ディスコ・アルバムっていうのをよく作っていたんです。曲間にしゃべりを入れて。それ、みんな洋楽なんです。だけど、RCAのスタッフが、「克也さん、大阪でウケてる達郎の曲を、洋楽のディスコ・アルバムみたいな感じで作って、プロモーションで配りたいんです」と。それで『COME ALONG』を作ったんです。それをレコード会社が、タダで宣伝用で、ディスコとかに配っていたら、2万円とか3万円の値が付いて売り買いされるようになって。
それで、当時のスタッフの偉い人が、「そんな値段で取引されてんなら、カセットにして売っちゃえばいいじゃん」と。それでカセットで発売されたんです。あとからそういう話になって「え、売るの?」って言ったら、「ああ、悪いな。じゃあ払うわ」ってそこそこいいおカネをくれたんですね。「え、これもらいすぎじゃない?」とか言ってたら、そのカセット、40万本も売れて(笑)。カセットだけって話だったのがレコードも出ちゃったりして、それも大ヒットして。そのあと『COME ALONG 2』を出す時は、それなりのおカネをいただきましたけど。
だからそれが、当時のディスコだったんですね。みんな『COME ALONG』『COME ALONG 2』で踊っていた。今はもっと、クラブによって、DJによって、ヒップホップ、EDM、レゲエって音楽のテイストが分かれているし、お客さんの好みも細分化されているでしょ。でもこの『ベストヒットUSA』のイベントは、昔のようにノンジャンルな音楽がかかる、“Get together”っていう感じの時間になると思います。そこも、とても楽しみなんですよね。
最初は「テレビの仕事は断っちゃえ」と言った
そうです。話が来た時に──うちのカミさんがマネージャーだったんですけど、僕は「断っちゃえ」って言ったんです。それまで何度かテレビの仕事、頼まれて司会で出たことがあったんですけど。テレビだと待ち時間が長くて1日かかる、僕はラジオばかりでそういうふうなペースで仕事してなかったから、「時間のムダだからやりたくない、断っといて」って言ったんです。そしたら、断ってなかったんです。ある日、FM東京のスタジオに行ったら、黒い服を来た人が5~6人来て、「こういうふうな番組なんですけど」って説明を始めて、「えっ、断ってなかったのか!」って気がついて(笑)。
しかたがないから始めたんですけど、最初はすぐ終わるだろうと思ってたんです。でも、始まって3ヵ月くらいの時かな、番組のスタッフの結婚式に行ったんですね。テレ朝の偉い人がふたりぐらいいて、あとビートきよしとかがいるテーブルで。そこでテレ朝の人に「小林くん、あの番組ね、続くよ」って言われて。「あれ、案外数字を稼いでて、我々もびっくりしてるんだよ」って。社長に近いぐらいの人がそんなこと言うもんだから、ちょっと本気に考えて、努力もするようになって。そうしたら……土曜日の夜の番組なんですけど、日曜日にレコード屋の売上が変わると。ゲストで出た人のレコードが売れるとか、そういう現象が起きるようになっていって。
あとテレビは、『11 PM』で愛川欽也さんがやっていた……今野雄二さんが出ていてね、愛川さんが「ニューヨークではこんなものが流行ってんだね、コンちゃん」、今野さんが「ええ、これはトーキング・ヘッズというバンドで──」とか解説するんですけど。曲は1分も流れないんですよ。すぐ愛川さんが「これはおもしろいねえ」とかしゃべり始める。だから、『ベストヒットUSA』の話をもらった時も、テレビだからそういうふうなものしかやれないんだろう、と思ってたわけですよ。そしたら、そうじゃなくて……スタッフが言っていたのは「これからはビデオの時代です」と。これからは一般家庭にもビデオデッキが広まっていく、この番組の目的のひとつは、視聴者がビデオに録ることを予測して放送するんだ、という、新しい感じのことを言っていて。それはわかったんだけど、本当のところはよくわかってなかったんだよね。
ええ、そういうことですよね。
「お客さん、1曲いかがですか?」の時代
いや、でも、昔のような観られ方ではないですよね。今は映像なんて、YouTubeなんかで簡単に観れちゃうわけだけども……あの頃はね、僕のしゃべりが短いんです。30秒しゃべると長かったんです。80年代のあの頃は。みんな「ビデオを観たい!」っていうのがあったから、しゃべりは30秒以内に収める。15秒とか20秒かけてアーティストの説明をして、あとの5秒で、たとえば「今彼は××に夢中だそうです」みたいな下世話な情報なんかもちょこっと入れたりして。
おしゃべりが長くなっていったんですね。ビデオはどこででも観られる、それよりもこの音楽に対してMCが何を言うかが、大事になっていったというか。
そうですね。まあ、予想ができる音楽も多いけれども、予想を裏切るものが出て来ると「おお、新しい音楽が出て来たなあ」と思いますしね。
そうですね。だけど、80年代に、『タイム・マシーン』のコーナーで10年前のものを紹介しようと思っても、素材がなかったんですね。みんなMVとか作るようになる前だから。
だから映像を探すの、苦労しました。ライブの映像とか、レコード会社の人間も、「うちの倉庫にあるかもわかんないから、来て探してよ」って言われて、スタッフが行ったりとか。で、「ピンク・フロイドのこんな映像が見つかりました」とか、「ユーライア・ヒープの日本武道館の映像がありました」とか。
ああ。まあでも、今こうなっているのは、あたりまえのことだなと思っていて。だって、時代の変化って、これが正しいとかこれは正しくないとか、そういうものではないじゃないですか。たとえば今は、ラジカセなんて知らない人がいっぱいいるわけですからね。それにつれて音楽の性質も変わってるし、アルバムなんて聴かれない時代に入っているし。僕ら、80年代の頃、「将来はすっごい変わるだろうなあ」っていう話はしていましたしね。
はい。ただ、実際に見えて、自分の手の中で確かめることができるのは、たとえば楽器ひとつ抱えて「演奏しにまいりました、お客さん、1曲いかがですか?」っていうような。そういうお客さんとの関係は変わんないだろうな、ということは、よくしゃべってましたね。今、ミュージシャンみんな、ライブを中心に稼ぐようになったじゃないですか。それはまさにそういうことですよね。「お客さん、1曲いかがですか?」の時代ですよね。