今年でデビュー30周年を迎える高野寛の動きが、うれしくなるくらいに活発だ。頻繁なライブ活動に加え、2017年10月に久々にアルバム『Everything is Good』を出したかと思えば、わずか4か月後の2018年2月にもう1枚のアルバム『A-UN』をリリース。タイムレスなポップスの魔法と、いつまでも変わらぬみずみずしい歌声でファンを喜ばせてくれた。そんな彼の次の目標は、5月15日、Mt.RAINIER HALL SHIBUYA PLEASURE PLEASUREでのトリオ編成でのバンドライブ。そのライブへの意気込み、近年のライブのエピソード、楽曲提供、そして若い世代へ音楽を伝える喜びなど、高野寛の"今"を、ゆっくりじっくり語ってもらった。
曲を育てていくという感覚でライブをやるようになった
──近年の高野さんは、様々な場所で様々な形態で、活発にライブをやられている印象があります。
ライブのほうが活動のメインになっている感じもありますね。
──作品をリリースしてツアーをやって、というルーティンとは逆に、まずライブをやって新曲を披露して、それから作品を作るスタイルに変わってきていますよね。
そうですね。以前はライブより録音が好きで、スタジオだけで作った曲を初めてライブでやってみると、あれ?と思うことがあったりして。構成を変えたくなったり、歌詞が気になることも、よくあったんですよ。だったらもう、新曲をライブで練り上げてから録音するほうが、よりいい作品が残せるんじゃないかな?と。曲を体に一回覚えさせて、歌いやすい曲に仕上げるサイクルになってきつつありますね。
──この30年の中のどこかで、パラダイムシフトがあったわけですか。
2000年代、いや、2010年代ぐらいからですかね。ライブが好きになったのは、21世紀に入ったぐらいから徐々にですけど、それまでは苦手意識も強かったです。緊張するタイプだったので。宅録で作り込んだ音源をライブでどう表現するか?ということで、コンピューターを使ったりしていろんな試行錯誤をしてたんだけど、結局、弾き語りでやるのが潔いんじゃないかな?と。昔から憧れはあったんですけど、それが思った通りにできるようになったのが、だいたい2000年前後だったと思います。ここ最近、誰もがアコースティックツアーを頻繁にやるようになりましたけど、僕はけっこう早くて、20年ぐらい経ってるんですよ。スタジオで凝って作った音源をアコースティックでアレンジし直したりしているうちに、だったら最初からそっちを曲の骨組みにして、曲を育てていく感覚でライブをやるようになったんですね。
──近年の高野さんのライブは、とにかく場所が面白いですね。お寺だったり、カフェだったり……。
プラネタリウムだったり。
──そうそう。そういう、ライブハウスではない場所でやり始めたのは、どんなきっかけがあったんですか。
ライブハウスもカフェも、両方とも良さがあるんですけど、今のライブハウスって、年を追うごとにバンド向きの仕様になっているところが増えてきて、爆音でPAを鳴らすために音響はデッドな(残響音が少ない)、アコースティックライブには響きが物足りない小屋も多いんです。いくつかのライブハウスがくっついてる場所では、僕は静かにバラードをやってるのに、隣の会場の音が混じってきちゃうこともあって。だったら音響設備や照明に関してはライブハウスに引けを取るけれども、音の響きがいいところでやるライブもいいなと思い始めたんですよね。そうこうしてるうちに、同じようなことを考える人が増えてきて、情報交換しあったり。最近は全国で、新しい場所を探してくる人がいるんですよ。廃校になった学校とか、蔵とか、いろんなところを開拓していくアコースティック・シーンがあって、そんな流れでライブハウス以外の会場も多くなったんですね。
──もちろん大変なこともあるでしょうね。お寺とかだと、音響も整っていないだろうし。
ところが、たとえば岡山の蔭凉寺というお寺は、常設のPAがあるんですよ。住職がオーディオマニアで、音楽が大好きで、そういう噂がアルゼンチンやブラジルにも伝わっていて、外国のアーティストがそこに来て、ライブ盤を録音したりしてるらしい。愛媛のプラネタリウム(コスモシアター)も、たまに音楽のライブをやるらしいんですけど、上映技師の方が僕の歌詞を聴きながら、「冬の星座が歌詞に出てきたんで、冬の星座をうしろに映しておきました」って。全然打ち合わせもしてなかったのに、会場とうまくコラボレーションしつつライブができたりとか、嬉しい誤算もあるんですよ。あとはお客さんにも、普通にライブハウスに出かけることよりも"今日はどういうところでやるんだろう?"というところを楽しんでもらえるのかなと思います。
──写真で見ただけですけど、一番すごいと思ったのは、名古屋の三楽座ですね。本格的な和風の芝居小屋で、客席は百畳の畳敷きという(笑)。
普通に芝居や落語をやってる場所で、(立川)談志さんとか(笑福亭)鶴瓶さんとか、いろんな伝説があるみたい。そこもすごくフランクな方が運営していて、ライブもOKなんです。幕があったから、最初は閉めておいて、イントロで開けてもらったりして(笑)。そんな会場ならではの仕掛けも取り込みつつ、その日の状況に合わせて、雰囲気とか選曲も変えて楽しめるようになってきましたね。
──地方に出かける時の持ち物は、ギターとPCですか。
PCすらも持って行かないこともあります。ソロライブのやり方もいろんな時期があって、ループマシンを使うこともあるし、初期の頃はテルミンを持ち歩いていたこともあります。ピアノとテルミンとギターとか、いろいろやらないと飽きちゃうかな?と思ってた時期もあったんですけど、今はギター1本でいろんな弾き方ができるようになってきたので、機械に頼らなくてもできるんじゃないかなと思いながらやってます。
──ミュージシャンとして、常に進化している。
やっと、そうなりましたね。目標にしていた弾き語りのアーティストが何人かいるんですよ。矢野顕子さんや、ジョアン・ジルベルトや、そういう方にだいぶ近づけるようになってきたかな?と。まだ全然及ばないですけど、そんな気持ちで臨んでますね。僕はバンドマンではないので、ソロの表現として、弾き語りに対する憧れがあったんですよ。機械も好きなんですけど、機械に熱中しちゃうと客席が見えなくなるので、ちゃんと歌として届けたいなという気持ちはいつもありました。
──ちなみに選曲は、「虹の都へ」や「ベステンダンク」など、大ヒット曲も出し惜しみせずに。
そうですね。でも弾き語りツアーを始めた時期は、「虹の都へ」をやらずにどこまで盛りあげられるか?ということにこだわっていて。だからその頃のライブ盤(『Ride on Tide』: 2000年)には入ってないんです。まあ、今思えば若気の至りだなと(笑)。よくいますよね、そういうアーティスト。
──いますね(笑)。代表曲であるがゆえに、それに縛られたくないという。
そうですよね。でも今はこだわりはないです。