インタビュー/長谷川 誠
撮影/塚本弦汰
柔らかくて温かくて清涼で、なおかつ芯の強さを感じさせる、いい声だなあ。それが須澤紀信のデビューシングル「はんぶんこ/夢の続き」を聴いての第一印象だった。声高にメッセージを発するわけでもないし、派手でもないし、強烈なインパクトがあるわけではない。だが、歌声が実に自然に体の中に入ってくる。歌われている歌詞も平易だ。どこにでもいそうな普通の人間が主人公で、特別な体験や特殊な瞬間ではなく、日常の風景が切り取られていて、彼の素朴で飾らない人柄はそのまま歌の世界にも通じている。非凡なる平凡と形容したくなる音楽なのだ。彼の音楽を聴くと、人生の味方がひとり増えたように感じる人もいるのではないだろうか。さりげなく寄り添ってくれる歌、共感・共有できる歌。須澤紀信の歌を聴くことは彼とかけがえのない何かを“はんぶんこ”するようなことでもあるだろう。その彼に、音楽との出会いから現在まで、さらには将来の目標なども聞いていく。
──メジャー・デビューして数週間たちました。デビューを実感するようなことはありましたか?
デビュー前との一番の違いはまわりの人が増えたことですね。いろんな土地を回って、ラジオに出させていただいたりして、デビューしなければ届かなかったかもしれない人たちのところま
で、自分の歌が届いている実感がありました。反響もあったので、純粋にうれしいです。
──音楽との出会いは?
5歳の頃から高校に入るまでの10年間、バイオリンを習っていたので、それが最初ですね。母が昔、ピアノの先生をやっていて、ピアノが身近にある環境で、兄と姉がピアノを習っていたんですが、上2人と同じ楽器をやるのがイヤというか、その流れに沿いたくなかったというか(笑)。
──ピアノ以外にもたくさん楽器がありますが、バイオリンだったのは?
その当時、観た映画『耳をすませば』で天沢聖司くんがバイオリンを弾いている姿がかっこよくて、聖司くんへの憧れもあって、やりたくなったんだと思います。
──バイオリンを習って、現在の音楽活動のプラスになっていることはありますか?
単純に耳が鍛えられました。楽器や楽譜に馴染んだ経験はおそらく現在の作曲活動にも生きていると思います。
──野球少年でもあったんですよね。
父親の影響で野球が好きになりました。父親とキャッチボールをやり始めて、僕が小4か小5ぐらいの時にイチロー選手がメジャーリーグに挑戦して、僕もああいう選手になりたいなって。戦隊もののヒーローに憧れた時期もありましたし、いろいろ憧れがちな子どもでした(笑)。中学からは野球部に入って、バイオリンもやりつつだったんですが、野球のほうに気持ちがどんどん傾いていって、プロ野球の選手になりたいという夢を持つようになりました。
──高校の途中で野球をやめたとのことですが、理由は?
地元の高校の野球部に入ったんですが、いろいろなルールがあって、自分のやりたい野球がやるのが難しいと感じたんです。野球を嫌いになりたくなかったので、スパッとやめまして、その高校もやめて、姉が行っていた島根県の高校に入り直しました。全寮制で男女共学なんですけど、3学年で60人ぐらいしかいない小さな学校で、部活がなくて、校則が厳しい。マンガ、携帯、パソコン、ゲーム、雑誌が禁止で、恋愛も禁止。テレビもラジオもない。入学してすぐに、寮の3年生の先輩からにアコギをもらったことがシンガーソングライターになるきっかけになりました。
──ギターを手にしてすぐに音楽にのめりこんだんですか?
ギターをもらったことで、弾きたいという気持ちが強くなったことと、同級生で弾き語りのできるヤツがいたので、そいつと一緒に歌いたいと思ったことが大きかったです。僕は中学の時、姉の部屋でゆずのCDを聴いて以来、ゆずを好きになって、毎日のようにゆずを聴いていて、アコギで初めてコピーしたのもゆずだったんですよ。相方がMr.Childrenや斉藤和義さんやスピッツが好きだったので、それらの音楽とも出会い、いろんな人の曲を演奏していくうちに、自分でも曲を書きたいと思うようになりました。
──初めて作った曲を覚えていますか?
文化祭のテーマソングですね。毎年、文化祭のテーマソングを生徒から募集して、オーディション形式で生徒の投票で決めるんですよ。部活動がなくて、放課後も時間があるので、男子生徒はだいたいアコギを持っていて、一学年の中にいくつかユニットがあったので、それなりに応募数もあり、僕は2年、3年と応募しました。
──その時はどんな内容の歌を?
“ヒーローなんかじゃなくても、世界を救えるわけじゃなくても、物語の主人公ぐらいなら誰だってなれるさ”というサビでした。
──デビューシングルの3曲目の「君は誰かのヒーロー」のテーマと通じるところもありそうですね。
ちょっとありますね。文化祭でテーマソングと応募曲を収録したCDを販売するんですが、僕の歌も入っていて、聴いてくれた保護者の方が「いい曲だね」って言ってくれたのがうれしかったのを覚えてます。その後も曲作りは続けていました。学校の時間内はアコギを弾いちゃいけないんですが、ピアノはOKだったので、コードを覚えて、ピアノのある教室で曲を書いて歌ったり。時間はたっぷりあるので、朝の掃除をしてから朝食まで、朝食後から授業が始まるまで、昼休み、授業が終わってから夕食まで、夕食が終わってから勉強の時間まで、あき時間はとにかく曲作りをしてました。2年の時に作ったテーマソングは意気込んで意味をたくさん詰め込みすぎて、みんなで歌うのが大変な曲になってしまったので、3年の時にはいろいろ踏まえて作って、文化祭で選ばれて、みんなの前で歌いました。
──その当時、自分の歌声についてはどう思っていましたか?
ユニットを組んだ同級生がうまかったので、自分はまだまだだな、もっとがんばらないといけないなと思っていました。その時の相方は今、教師をやっていて、僕がデビューした話を生徒の前でして、デビュー曲をかけたらしく、「歌い始めた頃はこのカマキリみたいなキーキー声はなんだよって思っていたのが、今はこんなふうになった」と昔話をしながら喜んでくれたみたいなんですが、それくらい、最初の頃は細い声でした。人の曲や自分の曲をたくさん歌っていくうちに、キーも高くなって、声も太くなってきました。
──音楽の道に進もうと思ったのはいつ頃ですか?
高校の2年生の後半の進路相談のときにはもう「音楽がやりたいです」って、先生に言ってました。で、3年になって、音楽の専門学校に行こうと決めました。東京の専門学校の姉妹校が名古屋にあるのを知って、母方が名古屋で、馴染みがあったので、名古屋の専門学校に進みました。
デビューシングルへの想い&これからのこと