“逆に言えば、そういうことをどう克服していくかというのが、長くキャリアを重ねていくための課題の一つなのかもしれない”
──アーティストの方は誰でも、そういう時期が来るようですね。
でも、いまはそういう何度も歌ってきた曲を歌う場合も、初めて歌う気持ちにはなれないとしても、それに近い気持ちで歌えるようにはなってきました。そうしないと届かないだろうし。僕自身、いろんなアーティストのライブを観に行って、その代表曲をリアレンジして歌ったり、崩して歌われたりすると、すごくがっかりするんですよ。だから僕は、そういうことは絶対しないで、オリジナルのまま届けるということに徹しています。それがオーディエンスのみなさんも望んでいることだろうと思うし。長くキャリアを重ねている人は誰でもそういう時期が来るから、それをどう乗り切るのかというのがすごく大事ですよね。逆に言えば、そういうことをどう克服していくかというのが、長くキャリアを重ねていくための課題の一つなのかもしれないと思います。
──稲垣さんは、どういうふうに克服されたんですか。
「クリスマスキャロルの頃には」が大ヒットしてる頃、92年くらいですね。ライブがだんだん楽しくなくなってきたんです。自分でも原因はわからないんですけど。義務感でやってるみたいになってきて…。自分としては手を抜いてるわけではないし、来てくださったみなさんにいいステージをお見せしなきゃいけないという気持ちはあるんだけど、どうもやってて楽しくないんです。いま振り返っても、あの時期の状態をどう説明していいのかわからないんですけど。それで当時、自分なりにどうしたらいいか考えて、まずは自分が楽しめるステージにしていかないとダメだなと思って、それまで以上に自分の意見をどんどん言って、セットリストや全体の構成を変えていきました。それが大きかったのかなあと思います。
──ずっとツアーを続けること、ライブで歌うことがレコーディングに何か影響を及ぼしたところはありますか。
まったく違う作業だと思います。レコーディングでは、マイクの向こうにいろんな人を想像して歌うことになりますから。
──ただ、稲垣さんのライブでのボーカルの、音源で聴くボーカルとの違いのなさということにはいつも驚かされます。
武道館だったかな、ライブのスタッフが「稲垣さん、客席から見るといろいろ見えてきますよ」と言ってくれて、それで客席からステージを見てみたことがあるんですけど、確かに見え方とか距離感とか実感できるんですよね。ステージから客席を見てる分には、その感じ、特に席が後ろになったらどれくらい違うかとか、そういうことはあまりわからないんです。もちろん、最前列の反応はわかるし見えてるから、その様子でお客さん全体の反応を判断しがちなんだけど、でも自分の感覚としては大好きなアーティストだから敢えてちょっと後ろのほうで観るということがあるし、ライブが終わってから振り返ったときに“奥の席の人にもちゃんと届いたのかな?”と思うことがあるんです。だから、つねに会場のいちばん奥の席で観てる人のことは意識するし、最前列の人が盛り上がってるからといって、それに合わせてこちらもラフになっちゃったりしたらいけないという気持ちはありますね。
──レコーディング・スタジオで歌う場合も、最前列で盛り上がっている人よりはもうちょっと奥の席で聴いている人をイメージしたりするんでしょうか。
いろんな人を想像して歌うと言いましたが、そういう具体的なイメージとはまたちょっと違って、いろいろ想像はしても実際に歌い始めると、そこは無我の境地と言いますか、そういう感じです。デビューの頃はいろんな歌い方にトライしましたけど、そういうふうに考えてやっても、いい歌にならないんですよ。わざとらしくなっちゃう。むしろ、何も考えずに歌うことがいちばんいい歌になるということがわかってきたので、感情移入ということではなく、ただ曲に入り込んで作為的じゃなく歌うということをレコーディングでは心がけています。そういう意味では、ライブもオーディエンスの熱に影響されないでクールに歌うというところは似ているかもしれないですね。