TEXT・PHOTO / 桑田英彦
1959年、自らもミュージシャンとして活動を続けていたベリー・ゴーディ・ジュニアは、ジャッキー・ウィルソンなどに書いた自作曲の印税と家族から借金した800ドルを元手に、タムラ・レコードを創業する。そしてデトロイトのウエスト・グランド通り2648番地にあった写真スタジオだった物件を購入して小さな録音スタジオに改装し、2階を自らの住居として使用した。この小さな建物が後にヒッツヴィルUSAスタジオ(写真上)となり、モータウン・レコードの本社となるのである。この時代から1970年代初頭にかけて、モータウンはビルボードのホット100のトップ10チャートに79曲もランクインさせ、いわゆる”モータウン・サウンド”を世界に知らしめて全盛時代を迎える。インディペンデント・レーベルとして異例の大成功を収めたモータウンは1972年に本社をロサンゼルスに移し、徐々にその個性を失っていく。デトロイトに残されたヒッツヴィルUSAは、1985年に「モータウン・ミュージアム」として一般開放され、今ではデトロイトを代表する観光スポットとして、世界中からファンが訪れている。
スモーキー・ロビンソン(&ミラクルズ)、マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダー、ダイアナ・ロス(スプリームス)、テンプテーションズ、フォートップス、ジャクソン5はじめとする、ソウル・ミュージック最良の時代を彩った多くのアーティストを輩出したモータウン。これらのグルーブ感に溢れた芳醇なサウンドを支えたのがファンク・ブラザーズである。ベリー・ゴーディはモータウン設立にあたり、最高のミュージシャンを集め、文字通り”ヒット・マシーン”を作り上げたのだ。伝説のベーシスト、ジェームズ・ジェマーソンを核に、キーボードのアール・ヴァン・ダイク、ジョー・ハンター、ギタリストのジョー・メッシーナ、ドラマーのユーリル・ジョーンズなど、デトロイトの腕利きミュージシャンがファンク・ブラザーズに参加した。時にはマーヴィン・ゲイがピアノで、スティービー・ワンダーがドラムやハーモニカでセッションに参加することもあった。ファンク・ブラザーズの演奏をバックに録音された数多くのヒットッ曲は全米のラジオ、ジュークボックスで流れ、誰もが耳にするヒット曲として浸透していった。今日、ファンク・ブラザースは音楽史上もっとも成功したミュージシャンと誰もが認めるところだが、当時はまったく注目されることのない無名の存在だったのだ。
『マイ・ガール』『ダンシング・イン・ザ・ストリート』『ユーヴ・リアリー・ガット・ホールド・オン・ミー』『ヒート・ウェイブ』『リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア』『ラブ・チャイルド』『ベイビー・ラブ』『ジャスト・マイ・イマジネーション』『ホワッツ・ゴーイン・オン』など、現在でも「モータウン・クラシックス」として愛されている名曲の数々が生まれたのが、このヒッツヴィルUSAの地下にある小さなスタジオAである。中でも1970年9月にここでレコーディングされたマーヴィン・ゲイの名作『ホワッツ・ゴーイン・オン』は、ファンク・ブラザーズの芸術性の頂点を極めた名演である。まったくクレジットされなかったファンク・ブラザーズだが、この曲で初めて参加ミュージシャンの名前がジャケットに記載されたのだ。
ファンク・ブラザーズはヒッツヴィル・スタジオに集められ、膨大な数のセッションやレコーディングを行った。曲作り中心にいたのは後にモータウンの副社長となるスモーキー・ロビンソンだ。スタジオで曲ができると、それをマーヴィン・ゲイが歌うのか、それともジャクソン5歌うのか、シュープリームスが歌うのか、それはわからなかったが、アーティストが誰だかわからないままファンクブラザーズは集められ、1日に何曲も何曲も、ひたすらレコーディング続けていたのである。当時、ヒッツヴィル・スタジオの営業時間は午前10時から翌日の午前8時までの22時間だった。8〜10時までの2時間は録音機材のメンテナンスにあてられたのだ。ファンク・ブラザーズはまさにヒット・マシーンとしてモータウンに貢献したのである。
モータウンがロサンゼルスに移った後、ヒッツヴィル・スタジオや建物を見学したいというリクエストが多く寄せられた。そこでポスターやゴールド・ディスクを公開用に整理して、しばらく放置されていたスタジオAのメンテナンスが施された。そして1985年から一般公開され、ヒッツヴィルUSAの歴史的な建物は、アーティストや歴史を作ってきた作品などを立体的にアピールする「モータウン・ミュージアム」として運営されている。モータウンの黄金時代を飾ったアーティストの衣装や数々の写真、ゴールド・レコードなどが展示され、世界中からファンが訪れている。ハイライトは当時のまま残されているスタジオAだ。この小さなスタジオでスティービー・ワンダーやマーヴィン・ゲイ、スプリームズなどが作品を作り出していたことを思うと感慨もひとしおである。2階にはベリー・ゴーディの住まいが1960年代当時のインテリアのまま残されている。
モータウンの看板グループであるスプリームスは、モータウンの社長であるベリー・ゴーディのお気に入りであり、彼のサポートを受けてヒットを連発した。1964年には「Where Did Our Love Go?(愛はどこへ行ったの)」が、初の全米No.1となる。これを皮切りに続くシングルが5作連続全米No.1を記録し、スプリームスは一躍全米のアイドル・グループとして熱狂的な支持を得る。そしてダイアナ・ロス在籍時の最後のシングルとなる「Someday We’ll Be Together (邦題:またいつの日にか)」まで、計12曲の全米No.1ヒットを送り出した。3人のメンバーのうちダイアナ・ロスはソロ歌手としてさらなる成功を手に入れる。フローレンス・バラードはアルコール中毒になり32歳という若さでこの世を去るが、メアリー・ウィルソンは自伝『ドリームガールズ:マイ・ライフ・アズ・スプリーム』を1986年に出版しベストセラーとなった。メアリーが自著に『ドリームガールズ』と記したは1981年に初演となった同名のブロードウェイ・ミュージカルの内容を気に入ったためとされている。このミュージカルはスプリームスとモータウンの歴史をベースにしたものだが、2006年に公開された映画版の『ドリームガールズ』はメアリーの自伝での記述を原作として取り入れている。
モータウンで財をなした創設者のベリー・ゴーディは、1967年にそれまでの住まいを姉のアナ・ゴーディに譲り、デトロイトのボストン・エディソン歴史地区に豪邸を構える。この家は「モータウン・マンション」と呼ばれるようになり、こちらもモータウン・ファンの巡礼地の一つとなっている。その後アナはマーヴィン・ゲイと結婚し、1977年に離婚している。
JIM BEAM presents ブロードウェイ・ミュージカル 「ドリームガールズ」
2016年6月15日(水)~6月26日(日) 東急シアターオーブ(東京・渋谷)
※6月20日、21日は休演日
※日本語字幕スーパーあり
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桑田英彦(Hidehiko Kuwata)
音楽雑誌の編集者を経て渡米。1980 年代をアメリカで過ごす。帰国後は雑誌、エアライン機内誌やカード会員誌などの海外取材を中心にライター・カメラマンとして活動。ミュージシャンや俳優など著名人のインタビューも多数。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリー、ウクライナなど、海外のワイナリーを数多く取材。著書に『ワインで旅する カリフォルニア』『ワインで旅するイタリア』『英国ロックを歩く』『ミシシッピ・ブルース・トレイル』(スペースシャワー・ブックス)、『ハワイアン・ミュージックの歩き方』(ダイヤモンド社)、『アメリカン・ミュージック・トレイル』(シンコーミュージック)等。