TEXT・PHOTO / 桑田英彦
ボブ・ディランは1941年5月24日にミネソタ州のダルースという小さな街で生まれた。
ダルースはミネソタ州の北部のスペリオル湖畔(写真下)に位置し、かつてはUSスチール製鉄所をはじめ、多くの鉄鋼やセメント工場などが建ち並ぶ工業都市として、また周辺で産出される鉄鉱石の積出港を擁する港湾都市としても栄えた場所である。
ボブ・ディランの代表作のひとつ『追憶のハイウェイ61』に登場する国道61号線(写真上右)の北の起点がダルースであり、市内を走る61号線沿いには「Bob Dylan Way(写真上左)」と記された看板が多く建てられている。国道61号線はミネソタ州を南下してアイオワ州に入り、さらにセントルイス、メンフィスなどを経由してニューオーリンズまで続く長距離ハイウェイである。メンフィスから南のミシシッピ州にかけては、この61号線沿いに伝説のブルースマンを多く輩出した町が続き、このエリアを走る61号線は、通称「ブルース・ハイウェイ」と呼ばれている。
ダルースのダウンタウンは、セントルイス川がスペリオル湖に流れ込む河口の北側にあり、セントルイス川はミネソタとウィスコンシンとの州境となっている。スペリオル湖畔は遊歩道(写真上)が整備され、レストランやカフェ、ブリュワリーなどが並び、毎年5月には周辺の複数の施設を利用して『ダルース・ディラン・フェスティバル』が開催される。ディランのカバー1曲、オリジナル曲をそれぞれ1曲ずつ歌って競われるシンガーソングライター・コンテストは人気イベントとなっている。
美しいスペリオル湖畔の遊歩道から、サード・アベニューの緩やかな勾配の坂道を上って行くと519番地にボブ・ディランの生家(写真上)が残っている。この家の2階の部屋で、エイブラハムとビーティ・ツィンマーマン夫妻の長男として生まれ、ロバート・アレン・ツィンマーマンと名付けられた。現在この家はボブ・ディラン研究家である熱烈なファンが所有しており、ディランの75歳の誕生日にあたる今年の5月24日には、この家の前の歩道に小さなプラークが埋め込まれ「In Bob We Trust」と記されている。ディランはこの家で6歳まで過ごし、ダルースのさらに北側に位置するヒビングという街に引っ越している。
ダルース・ディラン・フェスティバルでは、ファンが持ち寄る多くのディラン・アイテムの展示・販売も人気のイベントだ。会期中は美しい湖畔に建つホテル『Fitger’s Inn』のロビーにディランのコレクターズ・アイテムが展示(写真上右)され、熱烈なディラン・ファンが一堂に会する。レコード、CD、Tシャツやスウェット・シャツから、貴重なブートレッグなどが展示・販売され、収益の一部は前述の「Bob Dylan Way」の維持管理の費用として寄付される。「Bob Dylan Way」は、ダルース市が2006年5月にディランの65歳の誕生日を記念してスタートしたプロジェクトで、以来、ダウンタウンを走る61号線沿い30ヶ所にルート・マーカー(写真上左)や標識を設置してきた。ボブ・ディランはダルースのアイコンとして定着しているのである。
ダルースの北およそ100キロ強の距離にある、カナダ国境に近いヒビングは、ボブ・ディランが6歳の時から、ミネソタ州立大学に入学してミネアポリスに出て行くまで、まさに青春時代を過ごした町である。ヒビング市役所のウェブサイトには「ボブ・ディラン・ウォーキング・ツアー」というマップも掲載されており、ディランが暮らしていた家をはじめ、アルバム「フリー・ホィーリン」に収録された『ガール・フロム・ザ・ノース・カントリー』のモデルである高校時代の恋人、エコ・ヘルストムと出逢ったヒビング・ハイスクールなど、14ヶ所をめぐるディラン・トレイルが記されている。
ヒビング・パブリック・ライブラリーにはボブ・ディランの展示室(写真上)が設けられ、所有するディラン関連の書籍をはじめ、興味深いメモラビリアの数々が展示されている。またヒビング時代のボブ・ディランの貴重な写真も多く、ロバート・アレン・ツィンマーマンからボブ・ディランに変貌していく過程が記録されている。
ダルースからヒビングに引っ越して3年後、ツィンマーマン夫妻はこの家(写真上)を購入した。ディランが多感な青春時代を過ごした家である。8歳の頃にはピアノを弾き、10歳になる頃にはハーモニカを吹きながらギターを弾いていたディランは、カントリーやブルースを経て、ロックンロールの洗礼を受けた。エルヴィス・プレスリー、ビル・ヘイリー、そしてバディ・ホリーの音楽が心に刺さり、リトル・リチャードのR&Bに度肝を抜かれた。初めてのバンドを結成すると、この家の左側にあるガレージやリビングルームがバンドの練習場所になった。恋人であるエコを2階の部屋に誘い、得意だったリトル・リチャード・スタイルのピアノを弾いて聴かせ、ブルースのレコードを聴かせたのもこの家の2階だ。当時、すでにアウトサイダーとしての片鱗を示していたディランにとって、両親とともに暮らすヒビングでの生活は窮屈な日々の連続だった。音楽を生業として生きていくためには、両親の期待から逃げるしかない。ミネソタ州立大学に入学が決まった彼は、ロバート・アレン・ツィンマーマンを捨ててボブ・ディランになるために、この家を出てミネアポリスに向かったのだ。この家も現在はボブ・ディランの熱烈なファンが所有しており、通りには「Bob Dylan Drive」と記された標識がたっている。
ディランは8歳の頃(写真上)からピアノを弾きはじめたが、正規のレッスンを受けたわけでなく、当初は家にあったピアノを叩きまくっていただけで、まったくの独学である。10歳を過ぎた頃(写真上左)、安物のシアーズ・ローバック・ギターを買ってもらい、まずはスタンダードなポップ・ミュージックをコピーに励んだ。ディランは14歳の時に映画「暴力教室」を観て、ビル・ヘイリーが歌う『ロック・アラウンド・ザ・クロック』に大きく揺さぶられた。ボブ・ディランに向かうすべてはここから始まったのである。15歳になると最初のモーターサイクルを手に入れ、ジェームス・ディーンが彼のアイデンティティの源泉となる。エコと付き合っていたこの時代、すでにプロとして使えるステージネームを真剣に考えていたという。そしてハイスクールの最上学年に上がる頃、「ステージネームはボブ・ディランにする」と決めたのだ。エコによると名前の由来は、英国の詩人で作家のディラン・トマスからだという。1959年6月5日にディランはヒビング・ハイスクールを卒業した。卒業年鑑にはあどけなさの残るはにかんだ表情の写真(写真上右)が載っており、「To join Little Richard」という本人の一文が添えられている。
ヒビングのダウンタウン、ハワード・ストリートにある『Zimmy’s(写真上)』は世界中のボブ・ディラン・ファンに愛されたレストラン&バーである。歴史的なトロリー駅舎を改築して1990年にオープンしたこの店は、ボブとリンダのホッキング夫妻が世界中から集めたボブ・ディランのメモラビリアを展示した、アンオフィシャルなディラン・ミュージアムとしてファンの間では有名な存在だった。ヒビングに集まるディラン・ファンのコネクション・センターとしても機能していた場所で、毎年5月24日のディランの誕生日に開催されるディラン・フェスティバルでもメイン会場として使用された。店内には膨大な数のポスターや写真、書籍などのメモラビリアが壁面を埋め尽くしている。しかし残念なことに、リカー・ライセンス(酒類取扱許可証)や税金関係の問題で2014年の3月にクローズせざるを得ない状況に追い込まれてしまった。ホッキング夫妻は店舗の再オープンには20万ドルが必要と考え、現在有志による寄付を募っているが、現時点では$11,072しか集まっていない状況だ。ヒビングのアイコンでもあるボブ・ディランを象徴する店舗だったので、なんとか再開されることを祈っている。
桑田英彦(Hidehiko Kuwata)
音楽雑誌の編集者を経て渡米。1980 年代をアメリカで過ごす。帰国後は雑誌、エアライン機内誌やカード会員誌などの海外取材を中心にライター・カメラマンとして活動。ミュージシャンや俳優など著名人のインタビューも多数。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリー、ウクライナなど、海外のワイナリーを数多く取材。著書に『ワインで旅する カリフォルニア』『ワインで旅するイタリア』『英国ロックを歩く』『ミシシッピ・ブルース・トレイル』(スペースシャワー・ブックス)、『ハワイアン・ミュージックの歩き方』(ダイヤモンド社)、『アメリカン・ミュージック・トレイル』(シンコーミュージック)等。