インタビュー/東條祥恵
米倉利紀——1992年、「未完のアンドロイド」でデビューしてから25年。日本のブラック、ソウルミュージックを牽引してきた歌手、アーティストとしてもっともっとたくさんの人に知ってほしい。日本人離れした鍛えられたボディとファンキーなリズム感。甘くセクシーでソウルフルな歌声をスマート、かつ美しく操っていく歌唱力は、圧巻の一言。おまけに、ファンを爆笑させながら心震わせる人生訓を織り込んだ歌詞やライブでの楽しいトークも素晴らしいとくれば、コンサートは常に人気公演になるのも頷ける。10月21日、<toshi’s 45th birthday bash!!!!!>を新宿ReNYで、また12月24、25日には同場所で今年6月に行われた春ツアー追加公演<“extra smoky rich”ツアー>の再演<“extra smoky rich” -WE ARE BACK>を開催する米倉が、25周年という節目の年に明かした米倉利紀の音楽、歌人生の表と裏。 米倉利紀は1日にして成らず──。
──25周年おめでとうございます。こんなに長く歌い続けられたこと自体、幸せな音楽、歌人生だったんじゃないですか?
今おっしゃって頂いた“幸せ”もたくさん、同じぐらい“大変”でした。
──えっ…大変だったんですか?
はい、25周年という大きな節目、「あっという間でした」とか「すごく幸せな時間でした」とか「充実してました」という言葉を発する方が美しいのかもしれない。でも『人生はそんなに美しく語れるものではない』と僕は思っています。僕の“歌人生”は楽しいことばかりではなかった。もしかすると、10がマックスだとするとその7〜8割が大変で、残りの2〜3割が喜びだったり、幸せだったり。その2〜3割が、7〜8割の大変さを遥かに超えた喜びや幸せだったから25年もの長い年月を歩いてこれたのかなと思います。自分一人の力ではなく、米倉利紀を支えて下さったスタッフのみなさん、家族、友人、これまで恋愛してきた人達もそうですし、何よりもファンのみなさんがいつも側にいてくれたからこの大変な25年を歩いてこれたと感謝しています。ただ「楽しい」だけだったら、こんな風に心からの感謝の気持ちを抱けなかったかもしれない。いろんな意味を込めて「大変な25年でした」。
──大変だとおっしゃる方はそうはいらっしゃらない訳で。そこをはっきりおっしゃるところが米倉さんらしいなと思いました。
「らしさ」、ありがとうございます。 “米倉利紀”の生き様を音楽にし続けたいと思っています。
──そこは、米倉さんの歌詞やライブのMCを体験すれば一目瞭然なんですが。そもそも米倉さんが、他の方々はあまり表に出さないようなことまで歌詞やトークで語るようになったのはいつからなんですか?
44年という人生を積み重ねてきた中で自然とこうなったんだと思うんです。それでも何かしらのきっかけはあったのでしょうね。曲で例えるなら宇都宮 隆さんに楽曲提供した「道 -walk with you-」を書いた頃。この頃に自分にとって人生の大きな分岐点に立ち、当時お世話になっていた事務所を離れたり。“これまでどんな道を歩いてきたんだろう”そして“これからどんな道を歩いていくんだろう”ということ考えながら。もちろんそれまでも自分自身への問いかけをテーマに歌をうたい続けていたんですけどね。この曲を書いた同時期に「大丈夫っ!」という曲も書きました。白血病で闘病生活をおくっていた従姉妹のために書いたもの。「道 -walk with you-」や「大丈夫っ!」という大きな人生の階段が目の前に現れたんでしょうね。
──その後の人生を左右するような。
その階段をどうやって登るかを一生懸命考える毎日でした。例えば綺麗な衣装を着て格好つけた米倉利紀ばかりをみなさんに提供するよりも、例えTシャツ1枚であっても、楽屋で寝転んでいても、家で寝転んでいても米倉利紀に変わりないんだということを再確認し、ある意味の自信を持ち始めたんです。白血病と闘う従姉妹の姿、笑顔に本気で向き合えたから。従姉妹の元気な姿も笑顔も、ベッドで「元気にならなきゃ」と頑張っている姿も従姉妹だし、言葉を発せられなくて目を開けるのも大変なぐらい苦しんでる姿も従姉妹だし、ベッドで最後に見た従姉妹の姿も従姉妹。どれも従姉妹には変わりないんですよ。僕もどんな状態であっても、天と地がひっくり返っても歌手、米倉利紀なんだということを、再確認できたんです。従姉妹の死は僕にとって大きな節目。大切な宝を心に残してくれました。
──それ以降、出す作品やライブはどんどん変わっていったんですか?
そうですね、例えば僕はいま現在、この瞬間は標準語で話していますけど、ステージで話す時は生まれ育ち馴染みのある関西弁です。その方が自分の心に正直にステージに立てる気がするんです。
──それまで関西弁は禁止されてたんですか?
そういうことではなかったのですが、大阪から東京に出て行ってデビューする=標準語で喋らなければいけないというのが暗黙の了解であったような、業界がそんな時代だったんですよ。だから、「未完のアンドロイド」でデビューするとき、「このビジュアルで関西弁はないだろう?」と自分で思って標準語にしたんです。それでも、イントネーションを完璧に標準語にすることなんてなかなかできなくて、当時のマネージャーさんにたくさん直されました。それも25年間の中で大変だったことの一つですね。