インタビュー・構成/フジジュン
写真提供/オフィス男闘呼塾エンターテインメント
今年1月に最新アルバム『不良品』をリリースし、「メイジャー・デビュー15周年記念興行 ツッパリHigh School Musical『氣志團學園Ⅱ ~拳の中のロックンロール~』」を開催中の氣志團。メイジャー・デビュー15周年を記念して、デビュー年から現在に至る氣志團の15年の歴史を振り返るスペシャルインタビューを敢行!15年を各メンバーに振り分けて、その年に印象的だった出来事や思い出を語ってもらう“15大トピックス”形式で行ったインタビュー。他では語られることのない本音や真相は、熱心なファンならずとも必読です!
第1回 2001年〜2006年のトピックス
★2001年★
3ヶ月連続VHSビデオリリースで東芝EMIよりメイジャー・デビュー
「結成3年、上昇気流に乗った00~01年」(綾小路翔)
2001年に入ってからは本当に目まぐるしい日々で、あまり覚えていないんですけど。2000年1月にダイノジに呼ばれて出演した、オナニーマシーン(※編集部注:当時、“特殊分泌家”を名乗りライターとして活躍しながら、オリコンウィークリー編集長も務めていたイノマーが、オノチン[JETBOYS]、ガンガン[ex.ONE NIGHT STANDS]と共に結成した、全裸がユニフォームの3ピース性春パンクバンド。03年、サンボマスターとのスプリット盤「放課後の性春」でメジャーデビューの経験アリ)主催の「ティッシュタイム」から一気に状況が変わったんです。あれから色んなライブに呼ばれるようになったし、あの日の夜、“綾小路 翔 ホットライン”と呼ばれる僕の携帯電話に初めてチケット予約の電話が来たことをキッカケに、倍々ゲームでお客さんが増えていって……。結成3年、ファンや盟友が出来て、先輩方にも目をかけていただけるようになって、やっと上昇気流に乗れたのが2000~2001年でしたね。そこからたくさんのレーベルや事務所さんからも声をかけていただけるようになったんですが、その中でも一番最初に目と声をかけてくれたのがディスクガレージさんで。目黒の川沿いにあった事務所に呼ばれて「ワンマンをやろう」と言っていただいて。それはその後、2001年7月に行った初のワンマンGIG「氣志團現象 ~ハイウェイに乗る前に~」で実現するんですが。その過程で、東芝EMIでメイジャー・デビューすることも決まっていくんですね。4月くらいにEMIで仮レコーディングをしたり、合宿に行って歌モノの曲を何曲か作ったりしていましたね。デビュー曲は「黒い太陽」にするか「湾岸夜想曲~ルシファーズ・ハンマー’94」にするかで悩んだ挙句、業界向けのプロモーション用に作った「氣志團現象」というビデオが一番面白いんじゃないか?という話から“3ヶ月連続VHSビデオでデビュー”ということになったというのが真相で。そこから、自分で“神風期”と呼んでいる時代に突入するわけですね。2001年のトピックスは、やはりメイジャー・デビュー、そして“氣志團現象”のステッカーを街に貼りまくって2名の逮捕者を出したという初ワンマンの開催かな(笑)。自分たちを取り巻く環境がどんどん変わっていって、夢みたいな日々が始まった頃でしたね。
★2002年★
メイジャー1stアルバム「1/6 LONELY NIGHT」(東芝EMI)発売
「One Night Carnival」をメイジャーで出すのに抵抗があった。(西園寺瞳)
2002年はドラマ「木更津キャッツアイ」に出演して、NHK「トップランナー」に出演して、氣志團を取り巻く状況がまたガラッと変わった時期でした。1stアルバム『1/6 LONLY NIGHT』が出て、メイジャー盤の「One Night Carnival」が出て。1999年くらいまではバンドが大きくなっていくスピードがまだ自分の中で把握出来てる感があったんですけど、2001年くらいから自分が思っている以上のスピードで色んなことが転がり始めてからは正直、不安もありましたね。あと、色んな人が知ってくれることで、逆にアンチが増えたことも感じていて。ちっちゃいことにこだわってたのかも知れないけど、俺たちの中には“ストリート出身”というプライドがあって、ライブハウスの叩き上げなんだという気持ちもあったから、色物に見られることで音楽的なアイデンティティが揺さぶられていた部分もあって。原宿でフリーGIG「03.30 原宿暴動」をやった時、怒髪天の増子さんに「お前らは俺らの誇りだ!」と言ってもらえたのがすごく嬉しかったし、インディーズ時代にやってきたことに誇りがあったから「One Night Carnival」をメイジャーで出すことに抵抗があったし……今考えるときっと、自信も無かったし、自分たちが確立してなかったんでしょうね。今は「GIGを一発見れば、きっと分かってもらえるはず」と思えるから、周りにどう見られようとなんとも思わないんだけど。俺やランマはこの頃、状況の変化に混乱してましたね。
★2003年★
2nd アルバム「BOY’S COLOR」(東芝EMI)発売。
「氣志團万博2003 木更津グローバル・コミュニケーション!! ~Born in the toki no K-city~」を木更津市/かずさクローバーパークにて開催 。
「寝る間もないほど多忙な日々に、文句ばっかり言ってた」(星グランマニエ)
この頃のことは全っ然覚えてないんですけど、「氣志團万博2003 木更津グローバル・コミュニケーション!! 〜Born in the toki no K-city〜」をやるって聞いた時は実感がなくて、「本当にやるんだ」という感じでした。実際やってみても「なんじゃこりゃ、すごい人だな!」って感じで、夢の中にいるみたいにボーッとしてて。「なんで、自分の親が出てるんだろう!?(※実父・ノブ・グランマニエがオープニングに聖火を持って入場し、開会宣言を果たした)」と思って見てました(笑)。親孝行になったから良かったんですけど、僕もよく知らないうちに出ることになってて、「実家に撮影行って来たよ」って後から聞かされてビックリしたのを覚えてます。『BOY’S COLOR』を作った頃は、とにかくレコーディングが怖くて。阿部(義晴/現ABEDON)さんは優しかったんですけど、「グルーヴを出して」って言われても「グルーヴって何?ノリ?何を言ってんだろう?」みたいな感じで言ってることも分からなくて、いっぱいいっぱいの中、勢いだけでやってました。(年表を見ながら)ツアーも万博前に41カ所48公演、年末にも10カ所20公演のやってるんですね!へぇ~、すごいなぁ~~!この頃は何か一個凄いことがあった後、すぐに凄いことが決まってるから、気持ちが休まる暇がなくて。朝までレコーディングをやっては撮影があってとか、いつも朝まで作業してて、全然寝る間もなくて。時間が出来ると呑んだくれて、文句ばっかり言ってました。
★2004年★
3rd アルバム「TOO FAST TO LIVE TOO YOUNG TO DIE」(東芝EMI)発売。
東京ドームにてGIG(氣志團現象最終章~THE LAST SONG~)、45,000人を動員 。
「東京ドーム公演を目前に、ランマがビルから落ちる」(白鳥松竹梅)
この年の一番の事件はやっぱりランマが怪我をして、東京ドームのGIGに出れなかったことじゃな。あの頃も“禁酒令”が出とったんかのう?ランマには何度か禁酒令が出とるんじゃが、隠れて飲んじょって。東高円寺のコンビニで、こっそり酒を買っちょるのをワシが見つけて叱ったこともあったんじゃが。ツアーの最中、大阪で一緒に呑んどる時にランマがビルから落っこちて。その時、ワシも一緒におったから責任感じたのう……。事故の後、みんなで集まってミーティングした時、メンバーは「東京ドームは中止するしかない」と言っちょったんじゃが、当時のマネージャーの明星さんが「こういう時だからこそ、やるべきじゃないの?」って一人だけ言って。師匠の阿部(義晴/現ABEDON)さんに「お力をお貸し下さい」とお願いして、東京ドームをやることになったんじゃ。あん時はメンバー全員、東京ドームに向けて、そりゃあ一致団結しとったわ。その後、名古屋の振替公演でランマが復活した時は、わっぜ感動してのぉ。事故は不運じゃったが、こうしてまた一緒にやれてるちゅうのは結果、幸運じゃったと思うたわ」
★2005年★
アルバム「愛 羅 武 勇」(東芝EMI)発売。
HALL GIG TOUR 2005→2006 「氣志團學園~愛羅武勇からはじめよう~」開催。
「音楽性に悩んだ時期。DJ OZMAの誕生、『愛 羅 武 勇』の完成」(綾小路)
ランマの復活を待って名古屋と大阪でアリーナツアーの振替公演をやって、映画「ワンピース」の主題歌の話が来て、シングル「夢見る頃を過ぎても」を出して……。傍目には順調に見えるかも知れないですけど、業界全体のCDの売上も下がってきた時代で。我々も「GIGの動員はあるけど、CDのセールスとのバランスが悪い」と常に言われ続けていて、果たして氣志團には一体どんな音楽が求められているんだろう?と悩んでいた時期でした。だから、作品ごとに色んなパターンの曲に挑戦したり、CDでしか聴けない“DJオズマ”と名乗るキャラを起用したり……僕も必死だったんですけど、メンバーも「いま地に足をつけないと、俺たちは終わる」と思っていたようで、アリーナツアーを終えた後に「ライブハウスでやりたい」と言われて。この年はライブハウスとホールの両方でツアーをやったりしていましたね。あとこの夏、台北のフェスに行った時、コーディネーターに「絶対近寄るな」と言われてた呑み屋のビルに呑みに行って「流行ってる歌を歌ってくれ」と言った時に歌ってくれたのが、DJ DOCの「Run To You」の台湾版、アレックス・トーの「脱掉/TAKE Off」で。それがキッカケになって生まれたのが、DJ OZMAだったんです。当時、色んな人に意見されて、スマートにJ-POP化していく氣志團の音楽に行き詰まりを感じていて。それをキッカケに韓国の音楽を聴くようになったら、全部が全部サビみたいな情報量の多いパワフルな音楽がすごく俺好みだなと思って。そこから徐々にアジアの音楽にハマっていくんです。同時期に日本のHIP HOPを僕なりに分析するようにもなりました。ちなみに、この時期に制作された『愛 羅 武 勇』という楽曲は、当時絶大なセールスを誇り、社会現象ともなったDef Techにインスパイアを受けて作った曲なんですよ。「どの辺りが?」って感じだとは思いますが(笑)。音楽的には僕の中で色々な発想が蠢いていた時期だったんですけど、それを共有出来なかったこともメンバーとの間にズレが生じてきた理由だったのかも知れませんね。この年に行った『氣志團學園~愛羅武勇からはじめよう~』ツアーも僕の中で一番の達成感があった内容で、すごく充実した時期ではあったと思うし。東京ドームやりました、紅白歌合戦にも2年連続出ましたと、周りからみたら順風満帆に見えていたかも知れませんが。その翌年に氣志團の活動が一度止まってしまったことを考えると、すごく大変な年ではありましたよね。
★2006年★
氣志團万博2006「極東NEVERLAND」を富士急ハイランドにて2days開催。
「氣志團万博2006『極東NEVERLAND』OP映像撮影で、メンバー海外へ」(早乙女光)