提供:渋谷区
第5回 語り手: 田島貴男(ORIGINAL LOVE)
1990年代初頭、音楽シーンの寵児となったオリジナル・ラブ。その初めてのホール公演は渋谷公会堂で、彼らはそれ以降もこの会場で幾度ものコンサートを行っていったのである。音楽性も含め、渋谷に何かと縁の深い田島貴男に、渋谷公会堂への思いを語ってもらった。
──きっと田島さんは渋谷公会堂に思い入れがあると思いますが、そうですよね?
うん、オリジナル・ラブで初めて大きなホールでワンマンをやったのが渋公なんですよね。だからやっぱり思い入れがあります。自分のホールライブの基礎になってるというか、基盤になってるような会場ですね、僕にとっては。
──そのライブに至るまで、渋谷公会堂にはどんなイメージがありました?
僕たちの世代は『8時だョ!全員集合』ですよ(笑)。あの影響が圧倒的にあって……『全員集合』はいつも渋谷公会堂からの放送だなと思って見てました。で、ステージが回転するんですよ。それをドリフがやっていた。あれをやってみたくてしょうがなくて。で、渋公で初めてライブやった時に、やったわけですよ。「あれを回したい!」と(笑)。「ドリフがやってたみたいな、あれをやりたい」とスタッフに言って。
──はい。その時はステージにソファが用意されていて、そこにメンバーがいて。それから舞台が回って、演奏するステージが出てくるという演出だったそうですね。
(笑)そうそう。あれはね、俺だけが考えたわけじゃなくて、スタッフと考えてたんです。そういうのが面白いんじゃないかと。思い付きみたいなもんですね。それをほんとにやったっていう(笑)。
──いろいろとアイディアを出して?
わりと安直に移動中とかに「それ良くない?」「あ、いいっすね。やりましょう!」って。当時は自分で何もかも決めてたわけじゃなくて……今はスタッフの意見を聞きながらも「それ俺、やりたい!」「それはやったほうがいいね」って自分で決めますけどね。あの頃は、見てる人は田島が全部決めてるんじゃないかって思ってたかもしれないですけど、現場としてはそうでもなかったです。(スタッフ側から)「あれやれよ」「これ、やろうぜ」「やらねえの?」みたいに言われることがよくあった。自分がリーダーでありながらね。でも初めての渋公の時は、「回して!」っていうのが先にありました。ステージを回したい、じゃあどう回すか?みたいな(笑)。
──とにかく、回すことありきだったんですね(笑)。渋公のステージに実際に立ったのは、コンサートの当日ですか?
当日ですね、うん。そこで……“やった!回った!”って。夢だったんだよね、あれを回すのが(笑)。たぶんドリフもあれがあるから渋公でやってたのかもしんないですよね。だってセットチェンジが必要じゃないですか。1時間の番組の中で……あれ、生放送でやってたんだもんね?すごいと思いますね、今考えると。だって演奏者がいたじゃないですか?
──回り舞台の裏にビッグバンドがいましたもんね。岡本章生とゲイスターズという。
そうそう!思うけど、当時(番組の)エンジニアの人は(バンドの)音を拾ったり何だかんだしなきゃいけなくて、すごかったんじゃないですかね。たぶん大騒ぎしながら放送やってたのかな、という気はします。
──田島さんがやった時は、そんなに大騒ぎでもなかったですか?
どうだったんだろう?ステージのスタッフは大変だったのかもしれないですね。まあ演奏者がワンセットで、表舞台はソファがあるぐらいで他に何もないくらいのものだったんですけど。でも回っただけでうれしかった(笑)。とにかく、子供の頃に刷り込まれた憧れの場所だったからね。今の言い方をすると聖地みたいな、それが渋公でしたね。
──ライブハウスでやってきた人にとっても、憧れの場所みたいな感じでしたか?
そうだね、うん。あそこから始めるぞ!みたいなね。最終的に武道館に行くのかどうするのか、って感じはありますけど。それまでには渋公があって、(中野)サンプラザ、NHKホールがあって、という……その最初のホールだね。
──東京ではそうですね。会場がライブハウスからホールになると、違う見せ方とかを考えないといけないですよね。
そうですね、ステージングにおいて、ライブハウスとホールはまったく違うものになりますから、それを知る上でも大事な場所ですね。渋公でやって、「あ、今まで俺らがやってたことがうまくいかないな」ということに気づいたし……音の感じだったり迫力だったり、小さいハコだからできてたことが、大きなホールだとできなくなる。まず音響がまったく変わってくるし。それでもまだ渋公はいいほうですよ。もっと大きくなると、すごいことになるので。そこでライブハウスでやってた音の感触で演奏できなくなって、じゃあどういうステージをするのかを考えはじめるわけです。ホールで演奏する時とライブハウスで演奏する時とでは、まったく別の種類の音楽をやるようなものなんでね。だからみんな、イヤモニ(=イヤホンを使ったモニター)をしちゃうんですよ。ライブハウスでやっても、どんなデカいホールでやっても、イヤモニ(からの聴こえ方)は変わらないんでね。だけど僕は昔からイヤモニが苦手なんで、今でもころがし(=足元に置くモニター用のスピーカー)です。そこで、「あ、全然違う!じゃあ、どういうふうに歌ったらいいんだろう?」という面白さがあるんですよね。ステージも広いし。ポール・マッカートニーや山下達郎さんもコロガシですよね。
──しかもイス席ですしね。それだけアーティストがステップアップするには大事な会場なんですね。
そう、大事な場所ですよ。とにかく、ホールでのステージングを学ぶ場所です。
──その後もオリジナル・ラブは渋公で何度もやってますよね。
そう、何回かやると、慣れてきてね。僕はああいう古い造りの小屋の鳴りが大好きなんですよね。大きさもちょうどいい。あんまりデカくなっちゃうと音楽だけのライブ・パフォーマンスじゃなくて、いろんなことを考える必要が出てきちゃうんです。たとえば照明だ、セットだ、ってね。けど、渋公はギリギリ音楽だけでできるようなホールだし。サンプラザとか渋公くらいのクラスのホールは、そういうところが好きですね。で、渋公は家から近いしね(笑)。
──(笑)それはそうですよね。
うん、自分のホームというかね……着いたら、なんかホッとするというか、自分にとってはそういう感じのホールで。東京でやるのは渋公、みたいな時もあったし。自分がいつも行くなじみの店じゃないけど、なじみのホールっていうか。そんな感じでした。
──渋公では、他にどんな思い出があります?楽屋の感じとか、どうでしたか。
2階に楽屋があって、ドア1枚でお客さんのいるロビーにつながってるんですよ。それで1回、ドアの鍵が閉まってなくて、お客さんが楽屋に入ってきたことがあって。俺がリラックスしてたら中に入ってこられて、「あっ、田島さん!」みたいな(笑)。おい鍵閉めとけよ!みたいなことがありましたね。向こうはビックリしてた(笑)。
──(笑)その夜の主役が、まさかすぐそこにいるとは思わないですよね。で、今回、その渋公がリニューアルされるわけですけど、どんなホールであってほしいと思いますか?
まず、回ってほしいよね!舞台が(笑)。あれ、残してほしいな~。あれが残ってたらうれしい。
──(笑)やっぱりですか。でもあれを使う人、そんなにいないですよね?
いないかな(笑)。転換って、(舞台の)横から引き出していくスタイルが多いですもんね。
──ああ、言われてみれば、渋公で回り舞台を使ったコンサートを見た記憶がないな……。
(笑)ドリフと俺ぐらいですかね?あ、でもスチャダラ(パー)は回してたと思う。ああいうのが好きな人たちは、あれを回したいと思うよ。
──なるほど。そりゃあ、スチャダラパーはドリフ好きでしょうね。それこそ彼らのルーツですよ。
そうそう!ドリフが好きな人たちはね(笑)。だって応用きかないもんね?渋公でそれやるにしても、全国ツアーとなるとね。
──たしかにそうですね。そういう演出を作っても、他の会場では……。
そう、他の会場ではできないですよね。とにかく復活した渋公で、あれが回るのかどうかだね(笑)。あの回り舞台がなくなってるかなという気がするけど……どうかな~。
──そもそも渋谷という街も、田島さんにはなじみ深いですよね。
そうそう。渋公ってさ、渋谷のシンボルみたいなところがあったと思うんだよね。それが一時期改装されるというので寂しかったけど、また復活するのはうれしいよね。今、パルコがないもんな。道玄坂にヤマハもないし、ちょっと変わったなという感じはある。昔の渋谷のイメージって、道玄坂にヤマハがあって、公園通りにパルコがあって渋公がある感じだったけどね。今はさ……駅前はガッシャガシャに人がいるけど、公園通りにはそんなに人がいないよね。
──たしかに。あの道玄坂を歩く感じも、さすがに数十年前とは違いますよね。
昔とは変わってますよね。だって東横線も都営新宿線までつながって地下になっちゃったし。前は東急百貨店があって、プラネタリウムがあって……ああいう感じが昔の渋谷のイメージで、それが好きだったんだけど。でも、これからオリンピックに向けてビル建てたりして、渋谷という街を新しく変えていこうとしてるからね。
──新しい渋公が、新しい渋谷のシンボルになっていくかもしれないですね。
そうですね。渋谷もエンターテイメントの街にするということだし。どう変わっていくのか、楽しみにしたいですね。