デスペラード:パラマウント・ランチ
1972年12月18日、イーグルスのメンバーと撮影クルーは1,500発の空砲を携えて、マリブ・キャニオンにあるパラマウント・ランチにやってきた。彼らのセカンド・アルバム『デスペラード』のジャケット撮影と収録曲のひとつ「ドゥーリン・ドルトン」のプロモーション・フィルムの収録のためである。ここはかつてパラマウント映画のアウトドア・スタジオとして多くの西部劇映画などが撮影された場所で、現在はナショナル・パーク・サービスの管理下で一般開放されている。ファースト・アルバムと同様に、フォトグラファーにはヘンリー・ディルツ、デザイナーにはゲイリー・バーデンが起用された。2人ともにこの時代を代表するクリエイターたちだ。ハリウッドのレンタル・ショップ “ウエスタン・コスチューム” からは大量の衣装や小物が届けられ、イーグルスは「西武開拓者時代のアウトロー」に仕立て上げられた。ギャングとして生き延びているイーグルスをフロント・ジャケットに、捜索隊によって殺されたイーグルスをバック・ジャケットに、このコンセプトで2日間を費やして撮影が行われた。完璧なセットと空砲を撃ちまくる演出にメンバーたちは夢中になり、撮影はじつにスムーズに進んでいったが、傍では当時のマネージャーだったデヴィッド・ゲフィンが、コストを気にしながら険しい表情で睨んでいたという。
テイク・イット・イージー:エコー・パーク・アパートメント
ロサンゼルス・ダウンタウンから北東方向に車で15分ほどの場所に、エコー・パークという小さな町がある。グレン・フライはジャクソン・ブラウンの勧めでここに移り住んだ。ルームメイトは後に『ユー・アー・オンリー・ロンリー』を大ヒットさせるJ.D.サウザーである。2人の部屋の階下にはジャクソン・ブラウンが暮らし、仕事も少なく暇だった3人は、遅い時間に起きだすと曲作りに没頭していた。当時、ジャクソン・ブラウンは『テイク・イット・イージー』という曲の仕上げに手こずっていた。どうしても3番の歌詞が思いつかないのである。そこで手を貸したのが階上で暮らすグレン・フライだ。途中まで出来上がっていた歌詞を引き継いで、瞬く間に仕上げてしまうグレンのイマジネーションの高さにジャクソンは舌を巻いた。曲の出来栄えを大いに気に入ったグレンは、イーグルスのデビュー・アルバムのオープニング・ナンバーに『テイク・イット・イージー』を収録した。シングル・チャートを全米12位まで駆け上がり、イーグルスは期待のカントリー・ロック・バンドとして認知された。共作者としてクレジットされたグレンは、この曲の印税としてまとまった金額を手にし、まずは溜まりに溜まっていたジャクソン・ブラウンからの借金を返したという。
桑田英彦(Hidehiko Kuwata)
音楽雑誌の編集者を経て渡米。1980 年代をアメリカで過ごす。帰国後は雑誌、エアライン機内誌やカード会員誌などの海外取材を中心にライター・カメラマンとして活動。ミュージシャンや俳優など著名人のインタビューも多数。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリー、ウクライナなど、海外のワイナリーを数多く取材。著書に『ワインで旅する カリフォルニア』『ワインで旅するイタリア』『英国ロックを歩く』『ミシシッピ・ブルース・トレイル』(スペースシャワー・ブックス)、『ハワイアン・ミュージックの歩き方』(ダイヤモンド社)、『アメリカン・ミュージック・トレイル』(シンコーミュージック)等。