ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインはステージのギャラを設定して、金にならない仕事は徹底して断ったという。ただし、ハンブルグから戻った後、ビートルズのホームグラウンドとなっていたキャバーン・クラブの仕事だけは特別だった。エプスタイン自身もキャバーンでのビートルズの演奏に強く惹かれ、未経験にもかかわらずマネージャー業を自ら申し出たほどなので、このクラブは別格の存在だったのだ。ビートルズが初めてキャバーンのステージで演奏したのが1961年2月9日で、ギャラはわずか5ポンド。翌年8月19日にはリンゴ・スターがビートルズのドラマーとして出演し、最後のキャバーンでの演奏となった1963年8月3日まで、292回のステージをこなしている。ちなみに最後のステージのギャラは300ポンドだった。
キャバーン・クラブは1957年にジャズ・クラブとしてオープンした。この時代にロックンロールのライブ演奏を聴かせる店では暴力事件が起きることも珍しくなかったが、キャバーンにはジャズ・クラブらしい落ち着いた雰囲気が漂っており、あまり客同士の騒ぎが発生することはなかった。革ジャンに不良少年のイメージを携えていたビートルズだが、ブライアン・エプスタインに指示によって革ジャンは4人お揃いの上品なスーツに変わり、ステージ・マナーを徹底させ、メンバーたちにプロ意識を植え付けていった。そして夜のステージだけではなく、ローティーンのビートルズ・ファンに向けて、キャバーンのランチタイムのステージにも頻繁に出演した。
1962年8月、解雇したピート・ベストに代わってリンゴ・スターがビートルズのドラマーとなり、9月4日に再度『ラブ・ミー・ドゥ』が録音された(このテイクはマスターテープごと破棄され、デビュー・シングル盤には、セッション・ドラマー、アランディ・ホワイトのバージョンが採用された)。この年の10月に発売された『ラブ・ミー・ドゥ』に続いて、翌1963年に入ると『プリーズ・プリーズ・ミー』『フロム・ミー・トゥ・ユー』『シー・ラヴズ・ユー』『抱きしめたい』とNo.1ヒットが続き、怒涛のごときビートルズの世界制覇がスタートする。この年にも定期的にキャバーン・クラブに出演していたビートルズだったが、大ヒット連発で彼らの人気は沸騰し、瞬く間に「ビートルマニア」を大量に生み出すことになった。彼らを一目でも見たいと願う少女たちが金切り声を上げながらキャバーンに押しかけるようになり、ビートルズの4人は混乱を避けるために出演時にはこっそりと隠れて楽屋入りした。すでにキャバーン・クラブのキャパシティではファンの要求に応えられない。そう判断したブライアン・エプスタインは1963年8月3日のステージを最後のキャバーン出演としたのだ。『シー・ラヴズ・ユー』のレコーディングの1ヶ月後、最初のアメリカ公演に出発する6か月前のことであった。
【施設情報】
The Cavern Club
10 Mathew St, Liverpool L2 6RE
+44-151-236-9091
www.cavernclub.org/
オリジナルのキャバーン・クラブは1973年3月に閉店した。現在のクラブは開業当時のレンガ、設計図を用いて可能な限りオリジナルに近い造りで再建された施設で、ビートルズが出演していた時代のキャバーンは通りを挟んだ向かい側にあった。
ザ・ビートルズ – ライブ・アット・キャバーン・クラブ
「ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years」本予告
桑田英彦(Hidehiko Kuwata)
音楽雑誌の編集者を経て渡米。1980 年代をアメリカで過ごす。帰国後は雑誌、エアライン機内誌やカード会員誌などの海外取材を中心にライター・カメラマンとして活動。ミュージシャンや俳優など著名人のインタビューも多数。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリー、ウクライナなど、海外のワイナリーを数多く取材。著書に『ワインで旅する カリフォルニア』『ワインで旅するイタリア』『英国ロックを歩く』『ミシシッピ・ブルース・トレイル』(スペースシャワー・ブックス)、『ハワイアン・ミュージックの歩き方』(ダイヤモンド社)、『アメリカン・ミュージック・トレイル』(シンコーミュージック)等。